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藤金作 新吉野

1844年09月24日~1932年03月19日
​弘化元年~昭和7年​
粕屋郡篠栗町生まれ / 八木山越え沿道に私費を投じ、桜を植えて新吉野の名所を作った政治家(県議)。


村、郡の官吏を経て、村議、郡議、福岡県議、徴兵参事等を歴任、明治27年より衆院議員に七期連続当選、植林事業にも携わった。

生い立ち

福岡県糟屋郡篠栗生まれ。祖父、金次 家産次第に傾き、父の時代借財多数の状況で苦労していた。父、藤亦太郎(問屋)、母、タネ (同郡箱崎町、矢野善太夫 次女)長男として誕生、幼名「菊太郎」藤家代々篠栗宿の問屋として由緒正しい家柄であった。
金兵衛の頃、寺子屋等にも通い、読み書き等学んでいたようだ。嘉永六年、菊太郎→10才にして金兵衛となり、篠栗問屋役に「問屋役」舊藩時代、宿場の継所を預かって藩の公用の人足、荷物を差配する役目。家督相続、21才、元治元年、問屋役を弟に譲り隣村(高田)の入庄屋にさらに庄屋から戸長へ、明治元年25才、06月等々。

略歴

県会議員10年。篠栗の「藤」から糟屋の「藤」へ、明治13年04月16日(37才)に福岡県議会へ、代議士15年
「初陣には落選」、明治25年02月15日、明治27年03月01日、51才で新議員、小選挙区で七度、大選挙区で三度、七回当選。第六議会から二十四議会、1,115日間(会期日数)努めた。天寿89才、昭和07年03月19日(1932)。著者曰く、とにかくまじめに、地元から、国政へ明治という新しい時代にその地域作り、国作りに一生をささげ貢献してきた人である。
生まれ付いての山男、とにかく熱心で、80才過ぎても暇さえあれば自分の持山をのこのこ見て歩くのが何よりの楽しみであったようである。名所、新吉野の櫻、八木山越えの七曲に沢山の櫻楓を植え、九州の花の名所を作った三ケ畑の造林百道の松原学校資源林。
地租増徴に年限、信用組合設置の建議、燐鉱調査の建議、「鉱業法案」の検討、国本培養の建議、農会法の改正他多数。このように、いろいろの分野で多岐に渡っての業績を残してきた。
T.N.

文献

藤金作 著者:清原陀仏郎 発行1935年(市立、総合図書館蔵、貸し出し不可、福岡県農業外史 37-40P 山本辰雄 農業春秋社 1963 福岡百科事典下 236P 西日本新聞社 福岡県 百科事典刊行本部 西日本新聞社1982.11

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