仙厓 死にとうない

1750年~1837年10月08日
寛永3年~天保8年
岐阜県生まれ / 1789年40歳で聖福寺第123世住持になる。晩年は仙厓の禅的戯画を求めるもので門前市をなした。臨終の言葉。


殿様やお金持ちに媚びることなく、易しく禅の教えを説き、博多の人々に愛された仙厓さん。この高僧仙厓さんは、最期の時を迎え、さぞ立派な言葉を残したであろう。
ところが臨終の仙厓さんの口から出た言葉は「死にとうない、死にとうない」であった。まさかこんな言葉が出るとは予想もしなかった弟子達はあわててその真意を訪ねたが「ほんまに、ほんまに」といったと伝えられている。
仙厓は1750年(寛延03年)美濃国(岐阜県)武儀郡宇田院の農民の子として生まれた。美濃国の臨済宗妙心寺派清泰寺において出家得度し、19歳の時東遊し、東海道程ヶ谷(横浜市)の東煇庵の月船和尚に参じて印可を受けた。

美濃に帰った仙厓は藩政の乱れを嘆き

「よかろうと 思う家老が 悪かろう もとの家老が やはりよかろう」と詠んだため美濃の国外追放になり「から傘を ひろげてみれば 天(雨)が下 たとえふるとも 蓑(美濃)は頼まじ」と詠み美濃を去った。
1788年、仙厓は請われて聖福寺に入り、翌1789年、39歳の時、123世となった。小男で、自らの顔を「四国猿の日乾し」といった仙厓が、聖福寺の門前に立ったとき、その身なりのひどさもあって小坊主どもが乞食坊主と間違えたという。だが仙厓は、身体は小さかったが沈着にして胆力があった。
荒れに荒れていた聖福寺を復興させた仙厓は61歳の時、住持を弟子に譲り、虚白院に引退した。寺務から解放された仙厓は更に多くの人と交わり、「仙厓義梵」から「仙厓和尚」、そして「仙厓さん」へと変身をとげ、博多の人だけではなく、殿様からも、また子どもからも親しまれ愛された。
権威を嫌った仙厓は、本山の妙心寺から紫衣(しえ、最高位の袈裟)を与えられることも三度断り、生涯黒の袈裟で通したという。また軽妙洒脱な人柄で絵の得意な仙厓は、風刺やトンチのきいた絵を描き、禅を説き、飄逸洒脱な歌を作った。仙厓の絵は大人気で多くの人が求めて虚白院を訪れた。
1837年10月08日、「死にとうない」といって弟子達を慌てさせ仙厓は87歳の生涯を閉じた。

最期の詩句

来時知来処 去時知去処不撤手懸崖 雲深不知処
(来る時来る処を知る 去る時去る処を知る 懸崖に手を徹せず 雲深くして処を知らず)

西鉄太宰府駅前広場の歌碑

「烟(けむり)たつかまどの山の緋桜は香飯の国の贈る春風」

仙厓・幾つもの逸話の中から

承天寺の僧龍門が山門建立を仙厓に相談をしたとき、即座に「龍門が 一文無くして 山門を建てるなどとは もうセンガイい」豪商の新築祝いに招かれ、祝いに「ぐるりと 家を取り巻く 貧乏神」と揮毫すると主人は青ざめガックリ。そこで仙厓は「七福人は 外に出られず」と書きたした。
k.s
仙厓和尚の絵画
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