1902年01月24日~1991年
三潴郡城島町生まれ / パリ・オリンピック日本代表をはじめ数々の成績を残した世界的アスリートで、多くの選手を育てた。大正・昭和の九州陸上・九州駅伝の生みの親。
納戸氏は旧中学明善校から東京高師に進み、強力な体力と明治の気骨、慈愛で駆け抜けたそのままが九州の陸上史だった。明治35年01月24日福岡県三潴郡城島町に生まれ、少年期を過ごす“筑紫次郎”と呼ばれる筑後川を母にクリークを(堀)を友として03才の時には泳いでいたようで川幅数百メートルある場所まで泳ぎ渡り対岸から戻る。子供達は船をこいだり自然の生活環境が頑丈な体と体力を作り上げる。
明善時代スポーツ万能の素質があるため、野球部・庭球部・徒歩部、果ては試合時剣道の選手もこなす万能型であった。ともかく足は速かった。東京師範に進むころには、中距離に目標を決め体育科に入り、益々磨きがかかる。先輩には金栗氏、校長は柔道の創始者・加納治五郎、陸上競技の先生は野口源三郎(アントアープオリンピック1920年の十種競技に出場)された人。その指導の下に数々の競技に出る。大正13年の第一回明治神宮競技大会で選手総代表に選ばれて宣誓している。そのことは人格的にも優れていることの証左であろう。
大正末期14年パリ、オリンピックに日本代表として出場。400メートルにおいて日本記録を達成。日本陸上競技会に不滅の記録を残す。その当時400メートル、800メートルで記録を08回も更新、同じころ広島第一中学から早稲田大学に進み走り幅跳び、三段跳びで日本記録を更新した織田幹雄(アムステルダム五輪三段跳び優勝)の七回を越え〔記録男〕の異名で呼ばれた。また国内では走れば必ず勝ち、その不敗ぶりを当時の新聞は、剣豪宮本武蔵にたとえて報道したと伝えられる。
卒業後は縁あって地元福岡日日新聞に就職。
昭和02年福岡日々新聞(西日本新聞)に入社して以来、運動を担当する記者となってから、あらゆるスポーツにかかわる事になり、特に新聞社はスポーツ行事を主催する。このことが彼の履歴のうえに取材記者としてだけではなく、駅伝などの審番長とゆう側面を重ねて地域におけるスポーツ振興に身をもって当たり、戦前の九州各地の中等学校(高校)駅伝はこの人の息が掛からぬものは無かったゆう事績にそのことが読み取れる、戦前“駅伝王国”の祖を作ったとも言える。
当時新聞社では、運動面でのスペースはまだ充分ではなかったが(まだスポーツが一般の生活に浸透していなかった)社内での菊竹(六鼓)や数人の理解者の下でスポーツ欄が取り上げられること多々あり、現在では一面・二面とスポーツ欄があり考えられないことで、ちなみに第一回駅伝参加校は、修猷館・福岡師範・明善・佐賀師範の4校で優勝は明善だった。
E.A
1952年 「西日本各県対抗九州一周駅伝競走大会」開催。
長崎市の長崎県庁前をスタートし、福岡市の西日本新聞本社前をゴールとする70区間、 1090.29kmを走破する大会として開催。以来、区間と距離、参加チームに若干の変更や入れ替わりを繰り返す。
1956年 高松宮宣仁親王、大会に賜杯。「高松宮杯・西日本各県対抗九州一周駅伝競走大会」と改称。
1960年 「高松宮杯争奪・西日本各県対抗九州一周駅伝競走大会」と改称。
1967年 「高松宮賜杯・西日本各県対抗九州一周駅伝大会」と改称。
–九州一周駅伝・激走の記憶2
–文化であそぼ カルキャッチくるめ