桃中軒雲右衛門 浪曲師

1873年10月25日~1916年11月07日
群馬県生まれ /明治時代に一世を風靡した浪曲家。
宮崎滔天を弟子に博多で武士道鼓舞を旗印に旗揚げ興業し、03年後に大阪、東京で活躍する。 1907年06月07日に本郷座で「義士銘々伝」を口演する。
1903年(明治36年)、桃中軒牛右衛門の名で雲右衛門に弟子入りしていた宮崎滔天や、玄洋社の後援と「忠臣蔵」を国民的ブームのきっかけを作った『九州日報』社長福本日南が台本を書き「義士伝」を完成させる。武士道鼓吹を旗印に掲げ、1907年(明治40年)には大阪中座や東京本郷座で大入りをとった。雲右衛門の息の詰まった「三段流し(何を何して何とやらを一気に語る)」語り口は、それまで寄席芸であった浪曲の劇場への進出を可能にし、1911年歌舞伎座を一人で満員にし、浪花節(浪曲)全般の社会的地位を向上し、他の芸能人とも対等の交際が出来るようになった。
しかし1913年(大正2年)ごろから、肺結核に罹ったこともあって極貧生活に陥り、かつての弟子・宮崎が自宅に引き取って看病した甲斐もなく1916年(大正5年)11月07日に死亡した。墓所は東京都品川区の妙国寺。


桃中軒雲右衛門
浪曲師 二代目 桃中軒雲右衛門

桃中軒雲右衛門 (1953年)
桃中軒雲右衛門 (1953年)

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コメント

  1. 浦辺 登 より:

     宮崎滔天の『三十三年の夢』の中でも滔天が桃中軒雲右衛門に入門を希望する件、滔天の入門は冗談だろうと思っていたのには笑えます。
     倉田喜弘著の『明治大正の民衆娯楽』のなかでも、なぜか、雲右衛門は「九州芸能の魂」編に記載されています。