立花宗茂 柳川藩立花家初代当主

1567年12月18日~1643年11月25日
永禄10年11月18日~寛永19年
大坂の陣の徳川方華々しい戦功により、悲願の柳河城に十一万石の大身で見事に返り咲いた。


54歳の棚倉城主立花宗茂は突然江戸城に呼び出された。そこで告げられたのは旧領の筑後柳川11万石を与えるというものであった。奥州棚倉に骨を埋める覚悟であった立花宗茂の主従の喜びは想像以上のものがあった。実に20年ぶりの帰還である。領地を没収された大名で旧領に復帰したのは希有の例である。それは立花宗茂の義をつらぬき通した生き方にたいする信頼であった。
(経歴)永禄10年11月18日(1567年11月18日)、豊後国(大分県)国東で大友宗麟(そうりん)の重臣高橋紹運の長男として生まれた。永禄12年(1569)父に伴われ筑前岩屋城(太宰府)に移った。天正9年(1581)に立花道雪の養子となり、道雪の娘誾千代(ぎんちよ)と結婚した。誾千代は宗茂が養子になる以前に家督を譲られ立花城の城主になっていたこともあり誇り高く、気も強かったためか夫婦仲は良くなかったという。
背反常無き戦国の世にあって立花城の立花道雪と岩屋城の高橋紹運は一貫して大友の武将としての生き様を貫き通し、反大友勢力の肥前の龍造寺や朝倉の秋月とたびたび合戦に及んだ。実父と義父の恩義を受けた人に最期まで報いるという生き方は立花宗茂に引き継がれた。
天正13年(1585)義父立花道雪が龍造寺との戦いの陣中に没し、立花宗茂が立花城を継いだ。翌年島津義久は九州全土制圧のため大軍を率いて北上し、岩屋城を包囲、高橋紹運は猛攻撃に果敢に戦ったがついに落城した。(高橋紹運享年39歳)島津軍はついで立花宗茂の守る立花城を包囲したが立花宗茂は機略を持って切り抜けた。天正15年(1587)には九州に上陸した豊臣秀吉の島津攻めに従い功を挙げた。この功によって豊臣秀吉から筑後3郡13万石を与えられた。
文禄の役では碧蹄館の戦いで大勝し、慶長の役では蔚山に追いつめられた加藤清正を救出するなど勇名をはせた。慶長5年(1600)立花宗茂は、柳川城主に封じてくれた秀吉の恩義に報いるため西軍につき徳川方の大津城攻略に参加したが関ヶ原の戦いでの西軍敗北の報に接し大坂城に入城し、大坂城籠城を主張した。だがこの案は受け入れられなかったため柳川に帰った。ほどなく領地を没収され浪人となり加藤清正家に身を寄せていたが、やがて数人の家臣とともに江戸に出た。
立花宗茂は徳川家康の寵臣本多正信の推薦によって徳川秀忠の側近くに仕えることになり、のちに奥州棚倉(福島県)に1万石を授けられ、さらに3万石に加増された。大阪の陣では徳川秀忠の参謀を務め手柄を立てた。
元和6年(1620)立花宗茂は旧領柳川に復帰した。関ヶ原の戦いで西軍に属し、領地を没収された大名で旧領に復帰したのは希有の例である。
寛永14年(1637)島原の乱に立花軍も従軍し、翌年2月に立花宗茂が着陣した。島原の乱も平定された同年、隠居を許され剃髪して立齋と号した。寛永19年(1642)11月25日、江戸で死去した。
(立花宗茂の生年には諸説ある。)

k・s

立花宗茂 – Wikipedia
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コメント

  1. 原田周忠 より:

    中国の漢王朝の流れをくむ阿知王の子孫が大和朝廷に仕え大蔵氏の姓を賜り、春実の戦功により、九州に下向し原田庄に住み着いたことから嫡流は原田を名乗ったとされ、また、その子孫から高橋家が生まれたとされているが、立花宗茂もまた原田同様、城主として活躍した姿は同じ一族の子孫として誇りである。