栗山大膳 (利章・としあき) 黒田騒動

1591(天正19)年01月22日~1652(承応元)年03月02日
大分県下毛郡生まれ / 黒田忠之と筆頭家老栗山大膳、双方安泰の不思議なお家騒動で福岡藩を救った忠臣といわれ、盛岡に眠る。

栗山大膳 忠臣か逆臣か?わが殿は謀反人なりと訴え出た家老

福岡藩の重臣。栗山備後利安の子として豊前の国(大分県下毛郡)で出生。
名は利章または利亮。父の後を継いで筆頭家老となり、藩主長政の信任あつく、その遺言を受けて2代藩主忠之を補佐した。知略・決断力に富む治世家として知られ、凡庸な忠之からは疎まれることが多かった。幕府の法に背く、無謀な施策や不行跡の多い忠之を目覚めさせ、藩の存立を守るため、 1632(寛永9)年、身を挺して忠之を幕府に上訴した(黒田騒動)。忠之は将軍家光の直裁判の結果、謹慎処分にとどめられ、大膳は秀君を訴えた罪で盛岡南部藩預けで決着し、藩の改易は免れた。盛岡での大膳は影山四郎兵衛と称し、その忠節により預け人ながら南部藩から150人扶持と5里四方往来自由の待遇を受け、61歳同地で没した。墓は盛岡市恩流寺にある。(西日本新聞出版、福岡県百科事典・篠原進より)

栗山大膳の墓

栗山大膳利章(くりやまたいぜんとしあき)(1592年没)は、九州福岡城主黒田家(五十二万三千石)の家老であった。父は栗山備後利安といい、黒田藩の功臣で、禄高一万五千石であった。
大膳は、父のあとをうけて一万八千三百石の家老として、藩政を補佐し広く名が知られていた。黒田家三代目忠之(ただゆき)は、わがままな性格であり、藩政を顧みなかった。大膳はこれを心配して,しばしばいさめ、ききいれられなかったので意を決し幕府に訴えた。将軍徳川家光は黒田忠之を召し出し、寛永12年(1635)、直々裁判をなし、忠之に謹慎を命じ大膳俊章には直訴の罪により、その子等と共に奥州南部藩盛岡に預けたが、幕府はこれに百五十人扶持を給与した。また南部家もこれを手厚く待遇した。世に黒田家騒動を以て有名になっているのは、この事件に取材したもので、とくに黒田長政委託するところの水牛の兜をもって忠之をいさめたことが世間一般の評判となっている。盛岡に預けられてから18年後の承応元年(1652)3月2日、没し、法輪院(ほうりんじ)広福寺(後年廃寺)寺域に葬られた。「西木紹山(さいぼくしょうざん)」の号は、大徳寺の江(え)月(げつ)和尚からさずかったもので、墓側に長文の碑があり、没後3年の承応3年9月、その子大吉和周によって建てられ、撰文はその頃同じくお預けとなっていた碩学(せきがく)の僧、無方(むほう)規(き)伯(はく)の記したもので栗山大膳の忠節をたたえたものである。(この碑は今思流寺にある。)
栗山大膳
栗山大膳と盛岡 何時半次郎のKenBunLog/ウェブリブログ

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