菊竹淳(すなお)・六皷(ろっこ) 反骨のジャーナリスト

1880年01月25日~1937年07月21日
明治13年~昭和12年
浮羽郡吉井町生まれ / 五・一五事件の翌日05月16日付け西日本新聞に掲載された論説「首相凶弾にたおる」を執筆する。
1932年(昭和07年)05月15日、時の首相犬養毅が海軍の青年将校に暗殺された。この事件に際し多くの言論人が口をつぐむなか、軍部を痛烈に批判した言論人が福岡にいた。福岡日々新聞の編集局長菊竹六鼓である。


福岡日々新聞の軍部批判に対し「久留米師団の軍用機が威嚇のため福博の街に飛来し、福岡日々新聞社の上空で爆撃訓練をした。」という伝説まで生まれた。この反骨の編集局長は後に長谷川如是閑とともに世界新聞協会の「世界の報道人百人」に日本から推薦された。
1880年(明治13年)、うきは市吉井町福益の豪農菊竹辰二郎の次男として生まれた。六鼓は二歳の時、左脚を負傷して骨髄炎となり、何度も手術したが成功せず、これが原因で生涯脚を引きずった。六鼓の号はこれにちなむという。
六鼓は障害によって言論界に身を投じる決意をし、久留米中学明善校から東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治学科に進学した。しかし、障害のため東京の「国民新聞」(徳富蘇峰)に入れず、1903年(明治36年)地元の福岡日々新聞社(西日本新聞の前身)に入社。27歳の時、野口静子と結婚した。静子は看護士として働き、質屋通いをしながらも五人の子どもを育てるなど、六鼓を物心両面で生涯支えた。
六鼓は、市民の目線からエリアの問題を果敢に取り上げた。1905年(明治38年)、日本海海戦(05月27日~28日)で大勝利し、国中が戦争の勝利に高揚していたとき、堅粕の踏切番の11歳の娘宮崎お栄が線路を歩く人に危険を知らせるため、紅白の旗を振り、自らが轢死した事件を「理想の死」として掲載した。また公娼廃止を主張したため、遊郭業者が自宅まで押しかけてきて凄んできた。しかし公娼廃止の論陣を変えることはなかった。
1911年(明治44年)に編集長に就任、1928年(昭和03年)に編集局長となった。編集局長時代の1932年(昭和07年)、五・一五事件が起きた。翌日(05月16日)に「首相兇手にたおる」の論説を掲載し、夕刊に「軍人が国を誤る・・・」を載せ、軍部の暴力を厳しく糾弾した。新聞各社が軍部の圧力に屈し口をつぐむなか、菊竹六鼓は「うちはいつもの通りいきましょう。」との方針を確認し、05月17日は「敢て国民に覚悟を促す」、05月19日は「騒擾事件と世論」を掲載した。福岡日々新聞の論説に久留米第12師団の将校達は「反軍」だと怒り、軍用機の威嚇飛行の噂さえ流れた。
五・一五事件の一周年の1933年(昭和08年)、「憲法かファッショか」の論説を掲載したが、同年日本は国際連盟を脱退し、一歩一歩と暗い時代に進んでいった。 1935年(昭和10年)に福岡日々新聞社副社長兼主筆に就任した。
羽織袴で通し「古武士」といわれた反骨の言論人菊竹六鼓はデリケートな神経の持ち主でもあった。若くして編集長になった六鼓は、先輩のイジメにあいノイローゼ気味となった。これを献身的に支えたのは妻静子であった。また公娼廃止を唱えながらも、妻以外の女性と情を交わしたことも弱さのあらわれであった。
1937年(昭和12年)07月、結核で倒れた六鼓は、新聞社の仲間や家族に後事を託し、皆に看取られながら薨じた。享年57歳であった。
k・s
筑後吉井町 – 菊竹六皷
小さなミュージアム●菊竹六皷記念館
信念の言論人・菊竹六皷

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