加藤司書 筑前勤皇の巨星

1830年03月05日~1865年10月26日
天保元年~慶応元年
福岡市中央区生まれ / 薩長同盟の実現に努めたが乙丑の変で切腹、維新前夜に35歳で惜しくも散る。


幕末福岡藩の家老。名は三太郎のちに徳成(のりしげ)。
上の橋堀端(福岡市中央区大手門)で出生。父は徳裕、先祖は摂津伊丹(兵庫県)の豪族加藤重徳で、荒木村重の地下牢に幽閉されていた黒田孝高を救出した将として知られる。司書は11歳で義兄徳蔵の後を継いで2800石の中老となった。1853年(嘉永6年)ロシアのプチャーチンが軍艦で長崎来航の際、藩兵500人を率いてかけつけ、幕府外国奉行の川路聖謨(としあきら)を助けて活躍、水だけ与えて無事退去させた。1864年(元治元年)の長州征伐では、広島城での36藩の軍議で、解兵論を主張し戦乱を回避した。その功で翌年2月家老職、郡町浦事務総宰、財用方元締に抜てき。このころ5卿の太宰府入りがあり、その保護と薩長同盟の実現に努めた。しかし反論は佐幕に傾き、3カ月で家老を辞職。1865年(慶応元年)藩主長溥(ながひろ)の勤皇派弾圧によって天福寺(博多区冷泉町)で自刃した<乙丑(いつちゅう)の獄>。35歳。(西日本新聞社発刊福岡県百科事典~平山昌宏より)
西日本シティ銀行:地域社会貢献活動:ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう」
青松通信
まほろば国立歴史資料館 維新の礎 慶応元年 福岡-乙丑の獄

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