大応国師〔だいおうこくし〕崇福寺(そうふくじ)で開堂

1235年~1308年12月29日
嘉禎元年~延慶元年
駿河国安部郡〔静岡市〕に誕生。本名・南浦紹明(なんぼしょうみょう)
宋で修行し、1270(文永7)年10月28日福岡市姪浜興徳寺に入、3年後太宰府横岳(よこたけ)の崇福寺に移り、そこで30年以上弟子を育成した。後宇多天皇に求められて京都にのぼり、鎌倉で1308(延慶元)年12月29日74歳で没した。興徳寺所蔵の大応国師着色画像は国の重要文化財であり、「大応国師と白ウサギ」報恩伝説が残されている。


鎌倉建長寺の大覚禅師に参禅し、25歳で中国にわたり、当時最も秀れた禅僧と言われた虚堂智愚(きょどうちぐ)に師事した。虚堂のもとで悟りを開き日本に帰るにあたり詩を贈られ「東海の児孫日に転(うた)た多し(日本の弟子たちは次第に多くなっていくことであろう〕とその将来を期待された。
帰国して九州に下り1270(文永7)年10月28日姪浜興徳寺(福岡市西区)に入った。三年の後1272年12月(文永の役2年前)太宰府横岳(よこたけ)の崇福寺に移り、そこで30年以上弟子を育成した。この間東アジアに開かれたこの地において、防衛や交易、そこから得られる最新文化などさまざまな窓口の役割を担ったと思われる。後宇多天皇に求められて京都にのぼり、鎌倉で1308(延慶元)年12月29日74歳で没した。
1309年03月06日後宇多法皇の院宣により「円通大応国師」の諡号(しごう)を賜る。弟子の一人大燈国師は大徳寺を開き、その弟子関山慧玄(えげん)は妙心寺を開き、応燈関の法燈として今日の臨済宗の禅僧のほとんどは大応国師の法につながるのである。興徳寺所蔵の大応国師着色画像は国の重要文化財である。(福岡市美術館・「大応国師と崇福寺」展より)

「大応国師と白ウサギ」の報恩伝説

入宋して修行を積んだ国師は、めでたく帰国の日を前に送別の宴に出た後、オオカミに終われる白ウサギを助けた。いよいよ帰国の途につき、船が玄界灘にかかったとき、突然の暴風雨に船は木の葉のように揺れる。もはやこれまでと覚悟した国師は、一心に経文を唱える。そのとき、その日以来、国師の傍らに寄り添っていた白ウサギが荒波めがけて身を翻す。すると、ウサギが荒れ狂う波の間を走った後に一筋の道が開け、船はそれをたどって無事、博多の浜に着くことが出来た。それを見届けた白ウサギは金色の竜と化し、天に昇って消える。(江頭光・西日本新聞社発刊福岡県百科事典より)

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