乃木希典(のぎまれすけ) 秋月の乱を平定

1849年11月11日~1912年09月13日
嘉永2年~大正元年
明治時代を代表する軍人。1876年(明治9)10月29日、明治政府に対する士族反乱の秋月の乱を小倉鎮台を率いて攻撃平定する。 1877(明治10)年 – 小倉城に配備された歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加。熊本城北方の田原坂へ転戦、激戦の結果軍旗を失う。乃木はこれを終生忘れることはなかった。この事が後に乃木の自刃の遠因となる。
陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院院長。畏敬と親愛を込めて乃木大将などの呼称で呼ばれることも多い。
東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」とも呼ばれた。若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ帝国留学において質実剛健な普魯西(プロイセン)軍人に感化され、帰国後は質素な生活を旨とするようになったという。また、明治天皇の後を追った乃木夫妻の自殺は、殉死として美談にもなった。

秋月の乱

1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、旧秋月藩の士族宮崎車之助、磯淳、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約400名によって起こされた反乱である。神風連の乱から3日後の10月27日、今村を隊長とする「秋月党」が挙兵、まず明元寺で警察官を殺害(日本初の警察官の殉職)。旧秋月藩の士族はあらかじめ旧豊津藩の士族、杉生十郎らと同時決起を約束していたため、このあと豊津へと向かい、10月29日に到着する。しかしこのとき旧豊津藩士族は決起しない方針を固め、杉生らは監禁されており、談判中、豊津側の連絡を受けて到着した乃木希典率いる小倉鎮台が秋月党を攻撃。秋月側は死者17名を出し(政府軍の死者2名)江川村栗河内(現・朝倉市大字江川字栗河内)へ退却、10月31日に秋月党は解散し、磯、宮崎、土岐ら7名は自刃した。


東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」とも呼ばれた。若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ帝国留学において質実剛健な普魯西(プロイセン)軍人に感化され、帰国後は質素な生活を旨とするようになったという。また、明治天皇の後を追った乃木夫妻の自殺は、殉死として美談にもなった。
1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、旧秋月藩の士族宮崎車之助、磯淳、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約400名によって起こされた反乱である。
神風連の乱から3日後の10月27日、今村を隊長とする「秋月党」が挙兵、まず明元寺で警察官を殺害(日本初の警察官の殉職)。旧秋月藩の士族はあらかじめ旧豊津藩の士族、杉生十郎らと同時決起を約束していたため、このあと豊津へと向かい、10月29日に到着する。しかしこのとき旧豊津藩士族は決起しない方針を固め、杉生らは監禁されており、談判中、豊津側の連絡を受けて到着した乃木希典率いる小倉鎮台が秋月党を攻撃。秋月側は死者17名を出し(政府軍の死者2名)江川村栗河内(現・朝倉市大字江川字栗河内)へ退却、10月31日に秋月党は解散し、磯、宮崎、土岐ら7名は自刃した。

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コメント

  1. 名無し より:

    おもしろかったです。

  2. 石橋勇次 より:

    乃木大将偉かったです。殉職するとはあっぱれです。

  3. 浦辺 登 より:

     青山霊園には乃木大将夫妻の墓所がありますが、広大な霊園の中で「乃木将軍通り」まであり、人気が窺えます。しかしながら、墓所自体はさほど広くも大きくもありません。ゆえに、乃木将軍の人柄がわかります。
     また、現在の学習院大学には「乃木館」が残っています。