北条時宗 元寇

1251年05月15日~1284年04月04日
建長3年~弘安7年
相模国鎌倉/鎌倉幕府8代執権、国難・元寇の役の総指揮にあたった青年執権。神風で文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)を防いだと言われているが、元の皇帝フビライ・ハーンへの厳しい対応と博多湾に石塁(防塁)を築き、九州各地の御家人に、異国警備役を命じ、再度の襲来に備えた防衛策が功を奏したといえる。
1268年(文永5)1月蒙古の使者が太宰府に来る。02月27日幕府は西国御家人等に蒙古襲来に備えて防備を命じ、北条時宗が18歳で執権に就く。『立正安国論』で元が攻めてくる国難を警告していた日蓮は、時宗に諸宗を排除し外冦を警鐘する。幕府は日蓮を佐渡に流す。


蒙古の第二次侵攻である弘安の役では、弘安4(1281)年06月06日元軍の東路軍主力で対馬も壱岐も博多湾も埋め尽くされる。博多湾各所で上陸を試みるが撃退され、志賀島、能古島周辺へ碇泊中、日本軍の夜襲をうける。軍船4千4百艘、兵士14万人の元軍は攻めあぐね、本土上陸をあきらめ平戸付近に1か月ほど留まる。08月23日北九州を襲った大型台風のため元軍は壊滅的打撃を受け、我が国の勝利に終わった。
九州(肥後)の御家人で、自身の戦功を描かせた『蒙古襲来絵詞』で知られる竹崎季長は、文永の役の時は少弐経資(大宰府)の指揮下で活躍したが、弘安の役では、安達盛宗(泰盛の子)の指揮下のもと、志賀島、壱岐の海戦では敵の軍船に乗り込んで活躍して軍功を挙げ、多大な恩賞を与えられた。

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コメント

  1. 憂美 より:

    勉強になりました。

  2. 主宰 権藤 より:

    歴史は未来への羅針盤です。「賢人は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」とも言われています。今後とも活用願い福岡スピリッツを育んで下さい。