天智天皇 観世音寺

626年~671年12月03日
推古天皇35年~天智天皇10年
661年母斉明天皇を擁し、朝倉宮に本営を置き、百済支援の戦いの指揮をとる。母のために誓願して観世音寺を建てた38代天皇。671年06月10日(旧暦4月25日)漏剋(ろうこく)・水時計を新しき台に置き、鐘鼓を打って時を知らせた。06月10日は日本人が始めて時計をつくった日「時の記念日」である。


645年(大化元年)蘇我氏を滅ぼし、大化の改新の諸政策を立案・遂行に当たる。百済遺臣鬼室福信の救援要請に応じ、661年斉明天皇を擁し、博多港(娜大津)より朝倉宮(朝倉郡朝倉町山田)を本営とする。天皇が朝倉宮で崩じると百済支援の指揮をとる。白村江(はくすきのえ)の敗戦後、664年対馬、壱岐、筑紫に防人・烽(のろし)を置き、筑紫に水城を築かせ、翌年大野・椽(さい)両城を築城させた。

朝倉宮に見る天智天皇

杉山茂丸が著書「百魔」で語る。
「…俺の云う王政とは、古に復(かえ)る王政である。・・・一例として俺はかって朝倉の宮(百済救援のため、斉明天皇、天智天皇が661年から667年まで筑紫の国朝倉の橘の広庭宮に遷都)の旧記(日本書紀)を読んだ事がある。曰(いわ)く
(1)皇居は三棟であった。
(2)それが皮の付いた丸木柱である。
(3)そして藁(わら)の苫(とま)で葺(ふ)いてある。
(4)その苫が荒かった為に陛下のお袖が夜露に濡れていたという御歌が秋の田の刈穂の庵のとまを荒み 我衣手は露に濡れつつ(天智天皇)の御詠である。
(5)又宮垣(きゅうえん)胸に上らずで、木の丸殿(どの)の御垣(みかき)は胸よりも高くなかったとの事である。
(6)それで百姓が早朝野良仕事に往く時、鍬を下し、宮垣(きゅうえん)の外より拝して『上様、お早うございます』と御挨拶を申し上げる。
(7)陛下は『よう稼ぐ男よ』と仰せられる。
(8)百姓が野良より帰りに、山百合の花を手折りて、御垣の外に跪(ひざまず)いて『上様、百合が咲いて居りましたから』と手を伸べて捧げまつると、陛下は御手ずから『よき花をよ』と宣(のたま)うて、瓶(カメ)に押し賜うたのが、ときをぞしるき山百合の花 のお歌である。
(9)或る日御垣の外を小娘が腰を屈めて『上様、お早うございます。』と云うて行過ぎた。
(10)陛下は今物云うて行った娘は、八兵衛の子であったか、杢兵衛の子であったか、と仰せられた。即ち、朝倉や木の丸殿に我居れば名乗りをしつつ行くは誰が子ぞ とのお歌である。
(11)斯様(かよう)に古の王政の天皇は人民稼穡(かしょく)の事を思し召して、しばしば皇居を遷し賜い、丸柱、荒蓆(むしろ)の皇居に在(ま)しまして、直接八兵衛も杢兵衛も御懇意であった。
さあかくの如き君民の間が親しき為め、
1. 王政の陛下は『民は国の本なり』と仰せられる。
2. また王政治下の人民は『陛下は我々の父母なり』と慕い奉る。
この王政君民の間には、勤皇家も、忠義者も社会党(ソシャリスト)も、無政府党(アナキスト)も、虚無党(ニヒリスト)もないのである。かくの如きものが王政で、今上陛下は維新の初めに、それに復古すると仰せられたのである。然るに勤皇家と忠義者が出てきて、折角人民と天皇と親眤(しんじつ)せんとしているのに、それ頭が高い、物を云うて恐れ多い、お姿を拝して目が潰れる、とこの親子の中を隔離し、仲に在って自分が威張るから、不平党や謀反党などが出てくるのである。・・・・」
百済救援と朝倉遷都
天智天皇 – Wikipedia
天智天皇
天智天皇(38)

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