杉山茂丸 全身献体の快人

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1864年08月15日~1935年07月19日
元治元年08月15日~
福岡市天神町生まれ。国士・民間政治家(いわゆる浪人)だが、金融と経済こそ近代国家の基本と言う観点から、伊藤博文、山形有朋、桂太郎などを動かして、近代国家としての日本の方向付けを行なった。死体国有論の茂丸は1935年(昭和10年)の07月19日に死去、夫婦で東大に献体されている。
明治11年、藩閥政府打倒の壮士として伊藤博文の暗殺をはかって面談中、利権漁りに狂奔しているわけではないことを知って翻意。
大正期、杉山は郷里の経済発展に力を注いだ。博多港を築港するための株式会社を設立し、船成金と呼ばれた親友の中村精七郎が資金を提供して博多築港は進められたが、予想外に工事費が高騰し、中村は破産して築港事業は中断に至った。また茂丸は、地元福岡でも九州鉄道の敷設(現JR)のほか、世界最初の関門鉄道トンネル(1936年09月19日起工~1942年07月01日開業)の建設に大きな足跡を残しました。
1958(昭和33)年03月09日に開通した関門国道トンネルは、貫通式を1954(昭和29)年03月04日に行った。東洋の国士といわれる杉山茂丸は関門トンネルを民間の力で開鑿しようとして出資者を募り、政府に許可申請まで行ったが、遂に許可は下りず、関門トンネルは後年政府によって築造された。(杉山『百魔続編』、高野孤鹿『大熊浅次郎君追悼録』など)


1909年06月14日伊藤博文が韓国統監を辞任する。21才の時に伊藤公の首をとるため初面会した杉山茂丸が22年後1907年11月02日に京城で辞任か自決を迫り、辞任を約束した結果であると「俗戦国策」(書肆心水発行)で語る。


昭和10年(1935)のその年は、お正月に息子・夢野久作の「ドグラ・マグラ」の出版パーティーから始まり、05月には頭山・杉山交友五十年の祝いが盛大に行われましたが、その二ヶ月後の07月19日、茂丸は脳出血で死去。72才の生涯は、その数日前まで松岡に満鉄総裁への就任を熱心に説得していたと申します。
茂丸は「死体国有論」を主張し、「我が国の学問に何か役立つならワシが死んだら死体を解剖し、切り刻んで充分研究してくれ」と遺言を残しました。
その遺体は、本人の主張どおり東大で解剖され、その遺骨は今でも東大医学部の標本室に(二年後に亡くなった)奥さんの幾茂さん共々並べられているそうでございます。その脳は1555g、日本一といわれた桂太郎より45gしか少なくなく、骸骨は常人より大きく逞しく、胸部も幅広く実に堂々たる骨組であったそうです。
昭和10年07月19日、71歳で死去。杉山茂丸の葬儀は、芝の増上寺で玄洋社が中心となって、おおやけの公人として執り行なわれました。葬儀委員長は我が国近代史に隠然たる影響力を振るい続けた頭山満、副委員長は外務大臣で後の首相、茂丸が生涯で唯一人育てたと言われる広田弘毅、日葬の人々は引ききらず、その付き合いの広さを象徴。政治家・要人は元より、陸海軍の大将連、産業界の巨頭、欧米人、中国人、インド人、国士、志士、剣道・柔道家、本因坊から三役力士、托鉢僧の一群に続き、新橋・柳橋の女将や老妓などなど、長蛇の列が続きました。
その遺髪が郷里の福岡へ運ばれる時、東京駅でそれを見送る頭山は、人目をはばからず涙をポタポタ流し続けていたと申します。
元治元年(1864年)08月15日、福岡市天神町に誕生。郷土開発を志し、安場保和を福岡県令に担ぎ出し、道路の拡充、九州鉄道の敷設、海軍予備炭田の開放など、大胆な施策を次々に実行に移す。
05歳の時、藩主黒田長溥の槍持ち小姓となり、珍山尼という女医さんから勤皇精神を学び、ルソーの民約論に感化を受ける。明治11年、藩閥政府打倒の壮士として伊藤博文の暗殺をはかって面談中、利権漁りに狂奔しているわけではないことを知って翻意。郷土開発を志し、安場保和を福岡県令に担ぎ出した。安場は道路の拡充、九州鉄道の敷設、海軍予備炭田の開放など、大胆な施策を次々に実行に移し、杉山はその石炭の売りさばき先を求めて、明治21年、香港に渡った。ここでヨーロッパのマーチャンダイジング・バンクの実力を見せつけられ、これらの銀行に対等に伍していくことこそ、日本の植民地化を防ぐ、近代国家の基本との信念を持った。その為に工業立国を思い立ち、八幡製鐵所、日本興業銀行、博多港などの開設に取り組んだ。関門トンネルを最初に構想したのも杉山である。政治的にも日清戦争、日露戦争から日韓併合、鉄道の国有化、満鉄など近代化にいずれも重要な役割を果たしている。
其日庵と号し、義大夫と刀剣を道楽とし、著書は『百魔』『俗戦国策』『山縣元帥』『桂大将伝』など。作家の夢野久作は長男。インドを飢饉から救いグリンファーザーと尊称されている砂漠緑化運動推進者・杉山龍丸は孫。 (神田紅)


1900(明治33)年10月19日 – 第4次伊藤博文内閣が成立する。
当時37歳の杉山茂丸の働きを著書「俗戦国策」で紹介する。
伊藤工作のため義太夫大会を連日開催し、多額の資金を渡し、政党結成を勧め、立憲政友会が出来る。茂丸は、山県有朋から「石田三成」だと罵られ、しばらく山県への接触を控える。伊藤内閣成立の際、伊藤の意向で警視総監就任を促されるが固辞。公債をアメリカの銀行に引き受けさせる仕事を頼まれる。

1935年07月22日 杉山茂丸の葬儀が東京芝増上寺で執行される。
杉山茂丸の葬儀は、芝の増上寺で玄洋社が中心となって、おおやけの公人として執り行なわれました。葬儀委員長は我が国近代史に隠然たる影響力を振るい続けた頭山満、副委員長は外務大臣で後の首相、茂丸が生涯で唯一人育てたと言われる広田弘毅、日葬の人々は引ききらず、その付き合いの広さを象徴。政治家要人は元より、陸海軍の大将連、産業界の巨頭、欧米人、中国人、インド人、国士、志士、剣道柔道家、本因坊から三役力士、托鉢僧の一群に続き、新橋柳橋の女将や老妓などなど、長蛇の列が続きましたが。
その遺髪が郷里の福岡へ運ばれる時、東京駅でそれを見送る頭山は、人目をはばからず涙をポタポタ流し続けていたと申します。
(神田紅塾頭講談より)
杉山茂丸関係文献リスト
谷底ライオン
杉山茂丸 – Wikipedia
杉山茂丸
其日庵資料館

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コメント

  1. 芦辺勝己 より:

    其日庵主人の書の掛け軸とかは
    存在しますでしょうか?
    燕趙悲歌士と書いた軸を見ましたが
    お手数ですがお返事を
    お願い致します。

  2. 管理者 より:

    返事が遅れて申し訳ありません。
    掛け軸は時々見かけます。7万から10万くらいの値がついているようです。
    福岡の葦書房(古書・草香江)のホームページにもあります。
    http://www.ashishobo.com/cg