進藤一馬 桧原桜

1904年01月01日~1992年11月28日
福岡市生まれ / 第25代福岡市長。1984年03月11日の花守り市長への嘆願に、「・・・とわに匂わん花の心は」の返歌で桜の命を救う。
玄洋社最後の社長で政界引退後玄洋社記念館長、福岡市美術館長を務める。

「生い立ち」元日生まれ

明治37年(1904)の元日、父進藤喜平太、マサの第六子として、福岡市西職人町五十七番地(今の中央区舞鶴二)に生まれる。一馬という名前から長男と思えわれることも多いが、一月一日の午の日に生まれたことでの命名です。又駿馬のようにあれかしとの願いもあったようである。
明治43年(1910)大名男子尋常小学校に入学、大正06年、父、喜平太について、古い博多言葉に「谷わくどう」というのがある、今は谷公園(福岡市中央区輝国)のある丘陵地一帯を「谷」と呼んでおり、そこに住む微禄の武士のこと。雨の日、赤土の坂に転ぶまいと足を踏ん張り歩く姿がくわどう(ガマ)にそっくりと冷やかした言葉。父は嘉永三年(1850)その浪人谷で生まれ、藩校・文武館に学び、明治元年一月17歳で戊辰戦争に従軍、奥州を転戦、同年就義隊に入る、その後の経緯は省略するが、いろいろのいきさつから後に一馬も関係する玄洋社第二代、五代社長を務めている。
福中第一回生、福岡高校の前身・旧制福岡中学は大正06年04月創立、修猷館一校に加え新設校をとの要望ででき、そこへ入学(初代、高宮乾一校長)修猷館での仮校舎を経て、大正08年、福岡県筑紫郡堅粕町に新校舎完成、相撲部、柔道部等で活躍、今の福岡高校になっていった。
国士舘義塾進学、大正11年04月、いろいろの経緯後大正12年04月、早稲田大学専門部・政治経済学科(三年制)に進んだ。昭和04年中野正剛の秘書となる、氏の成長、その後の活躍に中野正剛先生のご指導、導き大と思える。東方会総務部長、三宅雪嶺主筆の「我観」編集署名人になる。昭和10年九州日報社取締役。昭和18年には「反東条」の理由で検挙、昭和19年玄洋社社長。敗戦後A級戦犯容疑で拘留。
昭和33年福岡一区から衆議院議員に当選(四回、自民党)、逓信委員会理事、大蔵委員会、のち商工委員会理事等を努めた。又昭和35年は日米安保条約改定を巡る保革攻防で、又学生運動が激しく荒れた年であった。昭和35年11月二度目の選挙は残念ながら落選、昭和38年11月総選挙で雪辱、通産政務次官で活躍。昭和42年、三期目当選、法務政務次官、昭和44年四期目当選を果たした。
昭和47年09月17日福岡市長として初登庁、前阿部市長の「緑の政令都市」を受け継ぎそれに「豊かな人間味」を加え「緑と人間味豊かな21世紀への都市」を目指して、計四選を果たし活躍した。姉妹都市提携、米国オークランド、友好訪中(昭和49年04月)福岡市青少年の船、友好訪中団派遣、同行、その他フランス・ボルドー市、昭和62年06月、ニュージーランド・オークランドと姉妹都市締結、調印している。昭和53年翌年と異常渇水継続、その対策に苦労、昭和54年福岡市節水要綱施行、「節水型都市」を目指して、種々の対策を続けた。昭和54年福岡市美術館の完成、昭和55年唐人町に市立こども病院・感染症センター完成、又地下鉄の建設も関係した仕事であろう。
昭和62年福岡市美術館長等、歴任。昭和62年02月名誉市民、勲一等瑞宝章。
氏の歌碑、菅原神社(福岡市中央区警固二)に建立「世を思い燃えつくさんとわがいのちたぎりし若き日夢のごとし」の自作の一首。
見出しで書かれている「筑前の花守」について補足します。上記のいわれについて、きっかけは昭和59年03月「きょうのニュース」西日本新聞都市圏版のある記事が目に留まったことから。 「福岡市南区桧原(ひばる)の道路沿いの「桜」の老樹10本が一帯の道路拡幅工事のため開花を待たずに切り倒される運命である」 このことを嘆いた一市民が一首短冊を枝に「花あわれせめてあと二旬ついの開花を許し給え」と。工事の公共性は分かりつつせっかくのツボミをふくらませている桜の老樹にせめて「ついの開花」をゆるしてとの風流心、あて先は「筑前の花守」つまり市長あてになっていた。市長としては公私の狭間での葛藤はあったものの、担当者への再検討、又次の一首を枝に下げるように指示、実行した。
「桜花(はな)惜しむ大和心のうるわしやとわに匂わん花の心は」と。幸い、担当部門での検討結果10本のうち8本は歩道の中に組み入れ残され、他2本は新しく並木用に若木が植えられることになった。翌年時期に市長自ら花見に、付近市民に迎えられ、一首「さだめなき卯月(うづき)の空のわびしさよ雨に散り行く桜見るかな」。地元、岩倉秀俊氏(当時72歳)が「行政の涙を残す桜なり生命の限り後の世代へ」と一句詠み返した。このことが音楽家の團伊玖磨氏の随筆に書かれ、全国に紹介され、岐阜県の人からの一首、「花便り筑前桜風にのり花びら一つさいはてまでも」早速返歌「待ちわびて花の便りを問う人の心にふれて今咲かむとす」この一件は月刊誌「リーダーズダイジェスト」日本語版にも紹介、さらに国際版にも掲載されたことは勿論である。
参考書籍 雲峰閑話 進藤一馬 聞書  昭和62年09月09日発行  著者 江頭 光  発行者 青木 秀  発行所 西日本新聞社
T.N.
進藤一馬 – Wikipedia
明治100年 記念講演
朝ぼらけ抜粋

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コメント

  1. KUMI より:

     最近失われつつある『大和心』のやりとり・・・素敵ですよね!!
     大和心の復活を願います☆
     桜の花が満開になると、なんとなく幸せになり、日本人で良かった♪と思うのは、私だけではありませんよね!?
     昔のほのぼのとした日本に戻らないかな・・・(・。・)
     

  2. 浦辺 登 より:

     松本清張の『昭和史発掘』(文春文庫)の「陸軍機密費問題」において、「進藤という早稲田大学の学生をともなって」と進藤一馬元市長が記されています。