松本治一郎 解放の父

1887年06月18日~1966年11月22日
福岡市生まれ / 29歳から半世紀、「反差別、反権力」と不撓不屈の精神で部落解放運動から世界水平運動に取り組む。
昭和22年、全国水平社を創立昭和23年 九州水平社を結成。同じく23年 徳川暗殺未遂容疑にて逮捕となり26年には福岡連隊爆破陰謀事件にて逮捕され2年ほど獄中生活を送る。

後世に残された言葉

不可侵 不可被侵(誰も侵さず 誰からも侵されない)
福岡市がまだ筑紫郡であったころ 豊平村と呼ばれた被差別部落に生まれ、少年期・青年期を通じて差別という厚い壁に阻まれ、辛い生活を余儀なくされた。屈辱に耐え抜いた経験はその後の彼の人格形成に大きく影響した。
明治36年 「義友団」という組織をつくり、中国に渡って様々に仕事を変わりながら中国各地を転々とした。
大正05年 建設会社「松本組」を設立と共に一方では部落解放運動へと乗り出していった。
昭和22年全国水平社を創立、昭和23年九州水平社を結成。同じく23年徳川暗殺未遂容疑にて逮捕となり、26年には福岡連隊爆破陰謀事件にて逮捕され二年ほど獄中生活を送る。25年の全国水平社大会では議長を務めた後、連続して委員長となり名実共に最高の指導者であった。
36年衆議院議員へ初当選する。その後続いて三回当選。46年部落解放全国委員会中央執行委員長就任、47年参議院選挙に全国区から第四位で当選、参議院副議長となる。 53年・59年・65年の参議院選挙にも連続高位当選、内閣に同和対策審議会を設置させる。同和対策をめぐる特別措置法の制定要求など、解放運動の現状打破へ大いなる貢献をなした。
長崎の原爆で母を失った青年に送った治一郎の短い一文である。そこには、こう書いてあった。
生き抜け、その日のために。
64年内閣の第一回生存者叙勲にあたり勲一等を授与するとされたものの拒否したことは、松本治一郎の信条を浮き彫りにし、平等の基本である「人の上に人を作らず 人の下に人を作らず」そのままであったと思う。
彼の主催する集会では治一郎氏はかならず会場の後ろから登場した。どのように勧められても、最後まで後部から座して挨拶をした。その徹底した態度は何を物語るのか・・
会合に招いた来賓に対して、主催する側として当然である。後部からの方が全体を見渡し、状況を掴むのに適している。徹底した被差別環境に適応して成長し、卑屈なまでの性格形成をなしてしまった。「松本治一郎」という人間をことなく世間へ受け入れてもらう方法としてどのようにすればよいか、又は「自分」が納得するかを知っていた。
後年、差別撤廃の荊旗を振って解放運動の指導をするにいたってなおかつ崩れなかった被差別部落出身であることが身についてしまっていた。これが差別の現状ですよ・・と教えていたと思う。
入浴の最後・・使った石鹸は必ずタオルで拭く習慣があった。濡れたまま置いておくと、溶けて早くなくなるからという理由だった。(豪放に見えるところ、垣間見える細やかな一面に彼の苦労が偲ばれる)
差別に苦しんだ100年余の歴史は以後100年過ぎても根底は変りはしない・・人が作る組織・社会で生きる以上、完全撤廃は夢か・・! バリアフリー社会とは物を作り、便利にすることではないはずだ。
参考文献
福岡県人権研究所著 西日本新聞社発行 「松本治一郎」
「福岡県被差別部落史の諸相」 部落解放史研究叢書
松本治一郎 – Wikipedia
松本治一郎
西日本シティ銀行:地域社会貢献活動:ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう」

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コメント

  1. サカモトカズミツ より:

    誤字の訂正
    後世に残されたことばの本文7行目の「部落開放運動」
    誤・・・開
    正・・・解

  2. 管理者 より:

    ご指摘ありがとうございます。
    訂正させていただきました。

  3. 森山沾一 より:

    「昭和22年全国水平社を創立、昭和23年九州水平社を結成」は大正の誤りです。
    松本治一郎については、西日本新聞からの人物叢書にも新発見資料にもとづきかかれています。ぜひ参考文献に入れてください。