緒方竹虎 憲法改正を後輩に託す

1888年01月30日~1956年01月28日
山形市生まれ / 敗戦直後の混乱を収拾し、戦後の保守合同に心血を注いだ玄洋社の流れをくんだ政治家。

「緒方竹虎小伝」

昭和30年(1955年)5月30日福岡県立修猷館高校創立70周年記念式典で「どうか我々の志を継いで、日本の再建をやり遂げて貰いたい」と占領軍によって強制された憲法の改正を訴え、翌年1月28日急性心臓衰弱で急逝する。
明治21年(1888年)1月30日、幕末に洪庵と共に適塾を開いた緒方研堂の孫として山形市に生まれる。林学者父道平が県大書記官となり来福。修猷館から東京高等商業学校(現一橋大学)中退、早稲田大学専門部政経科卒業。大阪朝日新聞社入社、のち主筆、副社長に進む。昭和11年(1936年)の2・26事件の際、東京朝日新聞社を襲撃した反乱軍将校と沈着に応接、大事を食い止めた。1943年10月、東条首相の弾圧に抗して自殺した親友中野正剛の葬儀委員長を務めた。1944年小磯・米内内閣の国務大臣兼情報局総裁。1945年東久邇宮内閣の要として敗戦直後の混乱を収拾したが、軍事裁判強行に抗議し総辞職。当時過労を気遣う兄に「生まれた国への借りを返さねば」述懐した。昭和27年(1952年)の総選挙で福岡県1区から立候補当選、第4、5次吉田内閣国務大臣、官房長官、副総理から自由党総裁となり、敢えて保守合同、自由民主党結成に心血を注ぎ、鳩山首相後継者と見られたが急逝した。幾岡一致館に剣を学び小野派一刀流の大目録を受け、修猷館剣道部に「心外無刀」の額�を贈った。
思想的には玄洋社の流れをくむアジア主義的なナショナリストと近代の開明的な民主主義の両側面を持つとされる。
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緒方道平の三男として山形県に生まれる。緒方姓は竹虎の祖父・郁蔵(本姓は大戸氏、備中出身、岡山県)が大阪で緒方洪庵の塾に入門、塾頭となり、義兄弟の盟を結び与えられた名である。同郷備中に生まれた妹尾道平(父)が縁あって郁蔵の養子となりその娘久重を妻に迎える(姓、緒方の由来)
4歳の時、父について福岡県に移る。父は福岡県書記官、その後福岡農工銀行頭取を務めた。
福岡県立師範付属小学校から修猷館中学に、その間無遅刻・無欠勤を貫徹、無類の勤勉さで知られる。修猷館で中野正剛に会う。修猷館から東京商業高等学校(現一橋大学)に入学、同学校の専攻部廃止の文部省令に反対する学生総退学決議を行った申酉事件(参考:武井大介)のリーダーの一人として責任を取り退学、中野に誘われて早稲田大学に転学同時に「玄洋社」頭山満らと親しく交わる。
1911年(明治44年)早稲田大学卒業、大阪朝日新聞に入社、東京勤務となる、東京朝日新聞政治部長から1925年(大正14年)38歳で同編集局長、1934年(昭和09年)同主筆を経て1936年(昭和11年)朝日新聞主筆となる。1943年社長との対立があり、主筆解任副社長に。
1944年(昭和19年)朝日新聞退社、小磯国昭内閣に国務大臣・情報局総裁として入閣、鈴木貫太郎内閣顧問、東久邇宮稔彦王内閣で国務大臣・内閣書記官を務めるが1946年(昭和21年)09月公職追放に、1951年(昭和26年)10月追放解除に。
1952年(昭和27年)10月衆議院議員総選挙で福岡一区から出馬当選、第四次吉田茂内閣で一年生議員ながら国務大臣・内閣官房長官に任命され1953年(昭和28年)05月成立の第五次吉田内閣、副総理に就任活躍した。吉田政権末期、有名なバカヤロー解散や造船疑獄により急速に政権は求心力を失い、鳩山一郎を中心とした反吉田勢力の台頭、政権維持にこだわった吉田政権も1954年12月総辞職を決意、12月08日自由党議員総会で辞任了承、後任総裁に緒方が選出された。
1955年(昭和30年)自由党と日本民主党による保守合同論の気運高まり緒方積極的に推進する。新党総裁を巡っての混乱を経て代行委員会による集団指導体制に落ち着いた。1955年(昭和30年)11月15日、自由民主党が結成され緒方は鳩山、三木武吉、大野伴睦と共に総裁代行委員に就任している。しかし鳩山後を確実視されていたが、1956年(昭和31年)、新総裁決定のための全国遊説中、風邪を引き三日後01月28日急逝した。自民党総裁は鳩山一郎に、後継が決まっていたのに緒方にとっては不運なことであった。
T.N.
緒方竹虎 – Wikipedia
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コメント

  1. 浦辺 登 より:

     緒方竹虎の墓は東京の青山霊園にあり、墓石の文字は吉田茂の書によると言われています。葬儀は東京築地の築地本願寺で行われたとのこと。
     盟友中野正剛の葬儀委員長を務めたが「貴様、死んで東條に勝ったぞ!」と読んだ弔辞は有名。
     ちなみに、国連難民高等弁務官であった緒方貞子氏は緒方竹虎の子息である緒方四十郎氏の妻。