広田弘毅 物来順応の宰相

1878年02月14日~1948年12月23日
明治11年~昭和23年
福岡市中央区生まれ / 戦犯で 黙して往った福岡出身の宰相。福岡市天神の水鏡天満宮にある、日清戦争戦勝を祝して建立された石碑「水鏡神社」は、17歳の時に揮毫したものである。
1936年(昭和11年)03月05日、天皇から組閣大命が下る。、03月09日、広田内閣が成立した。1937年02月02日福岡出身の広田弘毅内閣が総辞職する。


二・二六事件の責任をとり総辞職した岡田内閣の後には、初めに近衛文麿に組閣命令が下ったが、病気を理由に辞退。そのため、元老西園寺公望は、広田弘毅に首相就任を引き受けさせるため、近衛文麿と吉田茂を説得役として派遣した。広田は拒み続けたが、ついには承諾し、1936年(昭和11年)03月05日、天皇から組閣大命が下る。閣僚選出について軍部の干渉を受け(軍部による吉田茂入閣拒否他)つつも、03月09日、広田内閣が成立した。
就任後は、軍部大臣現役武官制を復活させ、軍事拡張予算を成立させるなど、軍部の意見を広範に受け入れることとなる。11月には日独防共協定を締結。しかし翌1937年(昭和12年)1月、議会で浜田国松議員の「割腹問答」があると、これに激怒した寺内寿一陸相が広田に解散を要求、ところが広田はあっさり総辞職した。広田の後任として組閣命令を受けたのは宇垣一成であったが、軍部が反対し流産。替わって林銑十郎に組閣大命が下り、02月02日に林内閣が成立した。その後、第一次近衛内閣の外務大臣に就任、重臣・貴族院議員なども歴任した。戦時中は東郷茂徳や石黒忠篤とともに院内会派無所属倶楽部を組織して東條内閣や大政翼賛会と対抗した。
なお、現在の国会議事堂は、広田が首相の時に完成している。
福岡市中央区の福岡市美術館前に広田の銅像が設置されている

2003年5月生前の桑原敬一氏の卓話

「志を持って生きる」
福岡市博物館館長・前福岡市市長 桑原敬一氏
「物来順応」。運命に逆らわず、逃げず、与えられた立場の中で全力をつくす。私の人生に大きな影響を与えてくれたのは、大先輩・広田弘毅さんの生き様でした。
「物来順応」の人・広田弘毅
広田弘毅さんは同じ大名小学校で、私が昭和十年に修猷館に入り、同十一年二月に総理大臣になられました。近衛さんが手をついて頼むと言われて、「自分は外交官で政治は向いとらんけれども、どうしても誰かがやらなければならんのなら、人に迷惑をかけないでやります。問題があれば責任は必ずとります」と首相になったのです。「物来順応」の言葉通り、広田さんは自然体。実に東洋的な考え方をお持ちだと思います。一番すごいと思ったのは極東裁判での広田さんの態度です。中国に介入しない、戦争を拡大しないという考え方であったのに、周りの無罪主張にも、「戦争責任があるから」と最後までほとんど弁明をしなかったといいます。最終的には一票の差で絞首刑になった。論語は東洋的な講師だといつも机の上にあり、実践していた広田さんは生まれた時から国を背負って立つ、そういう資質を持った方でした。


1878(明治11年)02月14日、福岡市鍛治町(現天神三丁目)で石屋の子として誕生、幼名丈太郎、後広田家の養子に。第一高等学校、1905年(明治38年)東京帝国大学を卒業、外務省に。早くから(右翼)の玄洋社と関係、その思想的影響を受ける。少年の頃から強い軍人志望であったようだが、1895年(明治28年)日清戦争後の英・独・ロシアの三国干渉で日本がせっかく賠償で取った遼東半島を支那に還付しなければならなくなり、それを見て「外交こそが大事だ」と、外交官志望に転じたと言われる。一度試験に失敗するも1906年(明治39年)外交官となる。
1932年(昭和07年)駐ソ大使を経て、1933年(昭和08年)09月14日から1934年(昭和09年)07月まで斉藤内閣の外務大臣、1934年(昭和09年)07月08日から11年03月まで岡田内閣の外務大臣を務め政官界から一流の外交官として評価された。
1936年(昭和11年)03月09日、総理大臣就任、陸軍の突き上げにあい、1936年(昭和11年)05月18日、軍部大臣現役武官制復活。1936年(昭和11年)08月07日「国策の基準」決定(五相会議)(これが後に極東国際軍事裁判の判決理由に)。1936年(昭和11年)11月25日、日独防共協定調印。1937年(昭和12年)01月21日浜田国松のいわゆる「割腹問答」により、寺内陸軍大臣から解散を強要され、1937年(昭和12年)01月23日、解散を巡る閣内不一致で内閣総辞職。元首相としての前官礼遇を受けることを拒否野に下った。
太平洋戦争中は1945年(昭和20年)、広田・マリク(駐日ソ連大使)会談を行い、ソ連の斡旋による和平を試みるも失敗。
戦後、A級戦犯として極東軍事裁判にかけられ、一切の弁解をせず死を受け入れたと言う。1948年(昭和23年)11月「太平洋戦争に至る日本の侵略政策作成」の判決理由で死刑判決を受け、1948年12月巣鴨プリンス内で絞首刑執行、文官で唯一人死刑となった。享年71歳。
T.N.

「落日燃ゆ」著者城山三郎さん死去

2007年03月23日各日刊紙朝刊は、A級戦犯として処刑された広田弘毅元首相を題材にした「落日燃ゆ」で1975年に吉川文学賞を授賞した城山三郎さんの死去を報じた。
「落日燃ゆ」は広く国民に、黙して逝った広田弘毅の人柄と東京裁判の意義を知らせる役割を果たした。
JOG(460)広田弘毅~黙して逝った「A級戦犯」
広田弘毅 – Wikipedia
広田弘毅 | 近代日本人の肖像
第33代・広田弘毅内閣

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コメント

  1. 浦辺 登 より:

     昨年(平成21年)、水鏡天満宮を訪れたときに広田弘毅の書いた扁額はどれですか、と天満宮の方に尋ねたところ、鳥居にかかっている「天満宮」がそれになりますと伺いました。小学校1年生の時のものだとも聞きましたが。
     尚、広田弘毅の戦争犯罪人理由として軍部大臣現役制復活を挙げる方がおられますが、組閣前に起きた2・26事件の背景にあった陸軍将官の派閥争いを読み解けば、軍部大臣現役制度復活は戦争犯罪人として処罰される理由には当たらないと考えます。

  2. 浦辺 登 より:

     天神3丁目の裏通りに「広田広毅生誕の地」という小さな碑がたっていましたが、いまだにあるのでしょうか。
     東京裁判の資料を読めば連合国軍が不当な裁判で広田弘毅を処刑をしたのは明白であり、背景にはアジアの植民地解放を支援した玄洋社関係者を抹殺するための見せしめとしか思えません。
     インドのパール判事のみならず、欧米の判事も広田弘毅の絞首刑に大きな疑問をはさんでいます。