山川健次郎 九大初代総長

1854年07月17日~1931年06月26日
嘉永7年~昭和5年
会津若松生まれ / わが国最初の理学博士学位を授与。1907年九州工大前身、明治専門学校総裁。1910(明治43)年12月22日に設立された九州帝国大学総長に1911(明治44)年04月01日から1913(大正2)年まで就く。


会津藩の重職(家老)を務めた山川兵衛の三男として生まれた。年齢が一つ足りないのと学門に専念させるという藩の意向で白虎隊には入らず(入っていたとの文献もあり?)、1865年の会津戦争、会津落城後長州人奥平謙輔を頼って密かに越後口に逃がされた。家督は兄大蔵(後の山川浩)が継いでいる。
明治02年東京に移り、前原一誠(参議・兵部大輔)の書生になるなど貧窮の中、苦学を続けた。明治04年に選ばれてアメリカ合衆国に渡り、明治05年夏エール大学のシェフィールド理学校に入学、学位を得て明治08年05月帰国、翌09年に23歳で東京開成学校教授補となる。この間「萩の乱」、「西南戦争」等起こる。
明治22年には日本初の「理学博士」となり、明治34年06月から38年12月東京帝国大学総長を、明治44年04月08日九州帝国大学初代総長を務めている。同22日400名の学生を前に演説、「試験のためでなく学問のために学問をすること」「自ら研究する精神を尊ぶ」「多方面に趣味と知識を有する人格養成」など現在も生きる建学の精神を説いている。
大正02年05月まで務め、さらに同年同月から大正09年09月まで再び東京帝国大学総長の任についた。大正03年08月から04年06月まで京都帝国大学総長も兼任していた。
晩年の風貌は質実剛健、古武士の風がある一方温情漂い、人々に感銘を与えた。大正04年男爵に、昭和06年06月78歳で没した。
T.N.

九州帝大設立

1910(明治43)年12月22日(21日説・西日本新聞福岡県年鑑)に九州帝大設立される。
1867年、当時福岡を統治していた黒田藩は賛生館という医学教育を行う藩校を天神に設立した。
古河財閥から1906年に「福岡工科大学、仙台理科大学、札幌農科大学」の建物建設へ寄付の申し出があり、設置の動きが高まることとなる。古河財閥の寄付金約100万円のうち6割ほどが九州帝国大学工科大学校舎建設の資金として当てられ、さらに福岡県の寄付金によって1910年に九州帝国大学が設立された。残りの4割は札幌農学校の東北帝国大学農科大学昇格(1907年)と東北帝大理科大学新設(1910年)のために用いられている。
創立年を賛生館の設立した1867年、大学設置年を九州帝国大学として独立設置された1910年とみる。
山川健次郎 – Wikipedia
白虎隊士から東大総長へ(山川健次郎)
九大広報第6号—学内歴史探訪

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コメント

  1. 浦辺 登 より:

     山川健次郎の墓は東京青山霊園にあります。兄の山川浩、母の山川唐衣(からころも)の墓と同じ場所にありますが、「山川家」のものに葬られています。墓石が三つあり、まるで炬燵を囲んでいるかのように並んでいるのが特徴的です。
     今でも、時折、会津若松市から有志の方々が墓参されています。
    「お召し列車事件」について福岡日日新聞にコメントを掲載したことで、その内容を追及されましたが、臆することなく命の大切さを訴えました。
     尚、妹の捨松(すてまつ)は薩摩閥の軍人である大山巌の後妻です。