広瀬淡窓 咸宜園主宰(かんぎえんしゅさい)

1782年04月11日~1856年11月01日
天明2年~安政3年
日田市生まれ / 1797年16歳の時福岡の亀井塾で学ぶ。咸宜園(かんぎえん)は福岡出身者が多く、本県への教育的影響は大きい。


豊後の国日田の人で学問を志し、16歳の時に筑前国の亀井南冥、亀井昭陽父子に師事した後、塾を辞め独学する。1805年、郷里である豊後国日田に私塾・咸宜園を開く。咸宜園は1856年淡窓・75歳の死後も1897年まで存続し、塾生は身分制限を外し、男女、年齢を問わず、全国各地から集まり、入門者は生涯に3811名と日本最大級の私塾となった。
門下生は、蘭医の高野長英、軍政家の兵部大輔大村益次郎、写真術の元祖上野彦馬、儒者中島子玉、太政官書記官・東京府知事松田道之、大審院長横田国臣、首相清浦奎吾、海軍軍医総監河村豊州、三井系実業家朝吹英次等日本各地各分野で活躍している。
歌人大隈言道をはじめ多くの福岡出身者が多く、本県への教育的影響は大きい。
淡窓の思想として有名なのは「敬天」である。人間は正しいこと・善いことをすれば天(朱子学においては「天」と「理」は同じものであるが、淡窓の考える「天」は「理」とは別の存在であり、「理」を理解すれば人間は正しい行いをして暮らすことができる、しかしその「理」を生む「天」は理解することができない、とする)から報われる、とする。淡窓の説くこの応報論は「敬天思想」といわれ、戦後から80年代まで主に研究されていた。最近では、淡窓の私塾である咸宜園を実力主義の教育システムとしての研究や、淡窓の漢詩に対しての研究が主になっている。

3年足らずの福岡滞在

淡窓がかねてから願いである福岡藩の亀井塾への遊学を果たしたのは16歳の時。しかし、福岡藩は士分でない者の入門を許しませんでした。
そこで淡窓は福岡藩士と養子縁組をして内山玄簡と名乗り、入門許可を得ました。亀井塾では塾長の亀井南冥に漢詩を、子息の亀井昭陽に文章を学び、詩文に一層の磨きをかけるのです。
ところが、入門から3年足らず、19歳の時に肺結核に似た病を患い、帰郷を余儀なくされます。
広瀬淡窓 – Wikipedia
豊の国大分の姿/人物

広瀬淡窓
広瀬淡窓

posted with amazlet on 07.01.12
井上 義巳
吉川弘文館
売り上げランキング: 507062
広瀬淡窓日記 (1)
広瀬淡窓日記 (1)

posted with amazlet on 07.01.12
広瀬 淡窓 井上 源吾
葦書房
売り上げランキング: 885823

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. 浦辺 登 より:

     広瀬淡窓の末裔に広瀬家当主広瀬七三郎という人物がいます。この広瀬七三郎の長女隆子(りゅう)が嫁いだのが、福岡の直方出身の向野堅一(こうのけんいち)です。
     上海の日清貿易研究所(後の東亜同文書院)を卒業し、日清戦争時は軍事探偵、通訳をしていた人で、直方に「向野堅一記念館」が顕彰会によって作られたと聞き及んでいます。

  2. 浦辺 登 より:

     広瀬淡窓の末裔で向野康江さん(茨城大学教員)という方が『子どものための美術教育』弦書房、2010年、を刊行されました。
     広瀬淡窓についての著述をおもちですが、この本にも一部広瀬淡窓について紹介されています。