亀井南冥 『金印弁』の著者

1743年08月25日~1814年03月03日
寛保3年~ 文化11年
現在の姪浜に生まれ、江戸中期の医家であり儒者(国学者)。1784年(天明年)02月23日に福岡市の志賀島(しかのしま)で発見された純金の刻印を、57年に後漢の光武帝から下賜した金印であることを解明する。
彼の学識は肥筑の国々はもとより、その子昭陽の門下生広瀬淡窓を通じて、豊前にまで行きわたり、九州における徂徠学派の重鎮であった。天明4年東西の藩学が出来た時に西学・甘棠館(カントウカン)総裁となる。福岡市の志賀島(しかのしま)で発見された純金の刻印を「57年に後漢の光武帝から日本よりの朝貢者に賜った国宝金印である」ことを解明する。著書に『論語語由』など墓所は中央区地行2-3-3浄満寺に「亀井一族の墓」がある。福岡県文化財に指定。


福岡藩士の金印論

南冥の『金印弁』の外、藩校・東学の竹田定良は『金印議』を、また、藩儒・村山広は『後漢書金印記』を執筆した。これらの著述を写して勉強したのが、宣長の高弟であり、やがて日本考古学の先駆者となる青柳種信(アオヤギ・タネノブ)である。金印発見時には19歳。藩での身分も低く、また当時江戸で勉学中であったため直接は「金印発見」には関わらなかったが、文化9年(1812)7月、測量のために筑前に入った伊能忠敬(イノウ・タダタカ)の案内役を務めた種信は、その求めに応じて自著『後漢金印略考』、『宗像宮略記』を贈っている。(本居宣長記念館)


1743(寛保03年)08月25日、筑前国姪浜村(現福岡市西区姪浜)で生まれ、父は聴因という村医であったが、当時の身分は百姓であった。田舎には珍しい開明の人物、当時の清新な学派、徂徠学に親しみ、医術も迷信的療法を排し、科学的な医方を採用、信望も高かった。南冥は聴因の長男で、父の訓育を受けた。
14才の時、肥前国蓮池の学僧大潮に師事、次いで京都に出て吉益東洞の門に入るも、数日にしてその医説の偏りを感じすぐに門を去り、大阪で永富独瀟庵の門に入った。師の独瀟庵が著した「漫遊雑記」に請われて序文を書いた時20歳、その学識が偲ばれる事跡である。
南冥は小石元俊、大田亨叔と共に独瀟庵三傑と言われた。まもなく帰国、福岡城下唐人町に移って開業、既に医術・学問共に名声高く、多数の入門者あり、福岡藩は南冥を士分に取り立て、西学問所を建設、教授に任命した。
1792年(寛政04年)対立した学派による中傷等あり、藩命により蟄居。22年後の1814年(文化11年)居室の出火で死去、享年72歳であった。

T.N.

亀井南冥 – Wikipedia

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