ジェニー・ギール 福岡女学院創立者

1846年11月13日~1910年06月20日
米国ペンシルバニヤ州ベルウッドで生まれる/米国メソジスト教会の若い宣教師で、1879年年11月13日“ゲイリック号”で来日。1885(明治18)年06月15日に呉服町の協会で英和学校を開校する。


米国メソジスト教会の宣教師として来日。福岡天神の現西鉄グランドホテル東側の道路沿い付近の古ぼけたあばら家を借り受け、キリスト教主義による人間陶冶を目ざし、福岡における最初の女子専門の高等教育機関としてわずかのスタッフと一握りの生徒によってミッションスクールを発足した。
ヤソには土地を売るな、家は貸すな、と言った偏見と反発の時代でもあり、家を借りるにも一苦労せねばならぬほど厳しい風にさらされての発足。その後、校舎も福岡市薬院の地に移り、戦後福岡女学院として幼稚園、中等科、高等科、短大として女子一環の教育の基礎を作る。
英和女学院を創設当時、生徒数30人足らず。年齢は不ぞろい、修業年限なし。ちなみに月謝五銭―五十銭ぐらい。教育内容は英学、邦学、内外裁縫、編法、織法、縫箔法(金箔や銀箔を縫いつけたもの、近世では縫いは刺繍、衣服の模様を金糸・銀糸で縫う)その他音楽、画学、内外料理法。しかしその他の時間は、聖書の講義や奨励の伝道に多くの時間は取られていたようだ。特にギールは米国でも秀でた音楽師にして、傍ら諸科の卒業を得たる才女で、賛美歌の練習も行われた。

時代背景

ミッション・スクールとしての、創立当時の日本の背景はアメリカのプロテスタン教会の伝道を抜きにしては語れない。日本とアメリカの国際的な関係が歴史の上に現れたのは、福岡女学院の創立に先立つことわずか32年前の1853年(嘉永06)年である。当時、アメリカは太平洋の捕鯨及び中国の絹と陶磁を中心とする貿易を目指し、1854年には上海の一部を居留地とした。
しかし、アヘン戦争後の清朝は外圧もあり、自らも欧州型近代化を政策として、すでに英、仏、蘭、露の進出が著しく、出足が遅れたアメリカとしては中継地として、是非日本の協力を必要としていたのであった。日米関係の開始が日本のプロテスタン宣教へと発展し、やがて福岡の女子教育の福岡女学院を創設し、日本近代化の曙と共に歴史が始まる。

当時の教育事情(維新前の教育)

徳川幕府の時代は、主として武士に対する教育は奨励されていたが、八代将軍・徳川吉宗(1716-1745年)は庶民教育にも力を注ぎ、その指導や統制のために教育書を工夫し、その使用を実施したという。庶民の日常の仕事や生活一般において、文字の読み書きや計数が必要であること、その手ほどきをする教育施設として、全国的に寺子屋の普及が多く見られる。当時寺子屋の規模はいろいろあって、男子の場合20~60人程度がもっとも多く、女児は数人から十数人の寺子屋はかなりの数あった。なお当時福岡周辺では大小合わせて寺子屋の数は50ヶ所以上在ったといわれる。

ミッションスクールの開設

1876(明09)フェリス女学院、1871(明04)共立女学院(現・横浜共立女学院)、1875(明08)神戸英和女学校(現・神戸女学院)、1876(明09)海岸女学校(現・青山学院)、1881(明14) 活水女学院。
E.A
福岡女学院大学
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福岡女学院95年史―1885~1980 (1981年)
福岡女学院
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