田中久重 東芝の父

1799年09月18日~1881年01月11日
寛政11年~明治14年
久留米市生まれ / からくり儀右衛門。技術大国の基礎を作る。からくり人形から和時計、蒸気船、電信機までモノつくりに命をかける。


きりりと引きし絞った弓、ひょいと矢を放すと見事的中、これぞ江戸時代のロボット弓張り人形。はたまた出てきました茶運び人形、お盆に茶碗を置くとすり足で客の前でお辞儀をし「はいどうぞ」、お茶を飲み茶碗をお盆に戻すとくるりと向きを変え帰って行くお利口さん。江戸末期のロボットはどこでも大人気。これらロボットの生みの親は久留米の大発明家からくり儀右衛門であった。
1799年(寛政11年)09月18日、久留米の鼈甲(べっこう)職人弥右衛門の長男として生まれた。幼名、儀右衛門。幼児から手先が器用で、創意工夫の才に恵まれていた。子どもの頃、寺子屋仲間が久重の硯箱にいたずらをするので自分以外には開けることのできないよう細工をし、皆を驚かせたという。
久重が15才の頃、久留米絣の創始者井上伝に協力し絵柄に新しい工夫を加え、久留米絣の発展に大きく貢献した。また久留米五穀神社の祭礼で水仕掛けの「からくり芝居」を披露し、参詣者の目を奪った。
20歳を過ぎた頃から「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになった久重は、新しい技術習得のため、長崎、熊本、大阪、京都を訪れ、一流のからくり技術を身につけ、諸国を廻り、からくり興行した。特に大阪道頓堀での50日に及ぶ興行は大成功だった。
天保の頃から、各藩で藩政改革が行われ、倹約ムードの中で娯楽的興行は厳しくなり、また1833年(天保05年)からの大飢饉(江戸三大飢饉の一つ)によって「からくり興行」は難しくなった。1834年(天保05年)家督を弟に譲り、妻子を大阪に呼び寄せ、実用品の製作・販売を始めた。新しく考案された商品は大評判で、商売は順調であったが、1837年(天保08年)大塩平八郎の乱で住居を焼失した。
久重一家は伏見(京都市)に移り住み再起を図り、1847年(弘化04年)には京都四条烏丸に「機巧堂(からくりどう)」を開店して事業を拡大し、懐中燭台や無尽灯(照明器具)を本格的に生産した。また和時計を製作しながら時計師としての技に磨きをかけ、1851年(嘉永04年)には一回のネジ巻きで一年間作動するという和時計の最高傑作「万年自鳴鐘(まんねんじめいしょう)」を作った。
久重は創意工夫と事業拡大だけでなく、天文学・陰陽道の名門土御門家に入門し、時刻、暦、天体について学び、また京都の広瀬元恭から蘭学を学ぶなど、学問による新知識の吸収にも努めた。
久重は広瀬元恭の蘭学塾で同門であった佐賀藩士佐野常民の推薦によって佐賀藩に仕え、蒸気船、汽車の模型、アームストロング砲などの製作にかかわり、佐賀藩を雄藩にのし上げる手助けをした。また故郷の久留米藩の招きにも応じ、久留米藩製造所長となり、月の前半は佐賀、月の後半は久留米で活躍した。
1873年(明治06年)、75歳の時上京し、明治政府の命により各種電信機器の開発・製造を行い、1875年(明治08年)、銀座に店舗兼工場を創設した。この製造所は養嗣子の二代目久重が継ぎ、芝浦に製作所を造り、1893年(明治26年)に、田中製造所を芝浦製作所と改名し、1939年(昭和14年)には東京芝浦電気株式会社が誕生した。1984年(昭和59年)東芝に変更された。 1881年(明治14年)82歳で没した。
k.s
田中久重 – Wikipedia
東芝の飽くなき探究心と熱い情熱 | TOSHIBA SPIRITトップページ
株式会社東芝 先駆者たちの大地 IRマガジン NET-IR

アイデア連発!大江戸のハイテク王 からくり儀右衛門
富士鷹 なすび
草土文化
売り上げランキング: 300319
からくり儀右衛門―東芝創立者田中久重とその時代
今津 健治
ダイヤモンド社
売り上げランキング: 915309
小説 田中久重―明治維新を動かした天才技術者
童門 冬二
集英社インターナショナル
売り上げランキング: 206583

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. 浦辺 登 より:

     東京の青山霊園に田中久重の墓があります。東芝が建てた立派な顕彰碑も同じ墓所にあります。