辰野金吾 福岡市赤煉瓦文化館

1854年08月22日~1919年03月25日
佐賀県唐津市生まれ / 1914年(大正03年)完成の東京駅を始め全国に多くの赤煉瓦建造物を設計する。1909年文化館を建設。


福岡市天神の昭和通り交差点に赤い煉瓦と緑のドーム型の屋根を持つどっしりした建物がある。現在は福岡市文学館(国指定重要文化財施設)として利用されている。この建物は明治44年(1909)日本近代建築の祖辰野金吾によって造られた旧日本生命保険株式会社九州支店である。
(略歴)安政元年(1854)08月22日、唐津藩(小笠原氏)の下級武士姫松倉右衛門の次男として生まれ、のち父の実弟辰野家の養子になった。明治3年(1870)藩の英語学校「耐恒寮」に入学し教師として招かれていた東太郎(高橋是清の変名。後に総理大臣となる。)に学んだ。
高橋是清が東京に戻ると教え子達は相次いで上京した。辰野金吾もその1人で東京ではイギリス人の家で働きながら英語を学び、明治6年(1873)20歳の時工部省工学寮(後の東京帝国大学)に入学、同郷の曽禰達蔵とともにコンドル(イギリス人)に学んだ。26歳の時造学科(建築科)を主席で卒業(入学時はビリ)、同時に郷里の幼なじみの秀子と結婚した。
各科の主席卒業者は海外留学が認められ、辰野金吾は10名の秀才とともにヨーロッパに旅発った。ロンドン大学で学びながら建築事務所で実務を修得。明治16年(1883)に帰国し工部省に出仕した。翌年、コンドルの後を受けて日本人最初の工部大学校(工学寮改称)教授に就任した。明治19年(1886)帝国大学工科大学設立とともに教授に就任し、明治31年(1898)工科大学学長就任。明治35年(1902)に辞職した。この間多くの建築家を育てた。
明治36年(1903)に東京に建築事務所を、のち大阪にも建築事務所を設け、数多くの建造物を造った。辰野金吾は建築にとってもっとも大切なものは基礎であり、もっとも重要視したのは耐震構造であった。明治29年(1896)に完成した日本銀行本店、大正3年(1914)に完成した中央停車場(東京駅)は大正12年(1923)の関東大震災でも壊れることはなかった。辰野金吾の建物は地味で重厚であったため「辰野堅固」という人もいた。
明治・大正期の開拓者・指導者辰野金吾は国家議事堂建設も夢であったが流行していたスペイン風にかかり死期を悟った。同郷の建築家曽禰達蔵(慶應義塾大学の建物の多くを造る)に後事を託し大正8年(1919)03月25日に亡くなった。享年65歳。

辰野金吾の福岡・佐賀の主な建物(重要文化財)

北九州市 八幡区安田工業株式会社八幡工場 行橋市  旧百三十銀行行橋支店 武雄市 武雄温泉新館・楼門

k・s

辰野金吾 – Wikipedia
辰野金吾小伝
人名資料室/辰野金吾

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