出光佐三 日章丸事件

1885年08月22日~1981年03月07日
宗像市生まれ / 民族経営を貫いてメジャーに抗し、1953年イラン石油を輸入した出光興産の創業者。出光美術館を設立する。


 出光佐三は明治18(1885)年、宗像市赤間で藍問屋の次男として生まれた。
 神戸高商に進学後、なんと一商店に就職。神戸商高・水島銕也校長の「士魂商才」の教えを胸に商売の基礎を学んだ。しかし実家が倒産、窮地を救おうにも資金はなかったが、佐三の人間性に惚れ込んだ神戸の素封家が巨額の資金を提供。それを元手に同44年、門司に創業したのが機械油を扱う出光商会だ。
  苦労した商売も軌道にのり大陸や台湾まで事業拡大。昭和16年「出光三十年の歴史に誤りなし」と「人間尊重、大家族主義、独立自治、黄金の奴隷たるなかれ、生産者から消費者へ」の出光憲法を現している。
 昭和20年、敗戦で資産を失うが、08月17日には社員に「愚痴をやめ、歴史を見直せ、建設にかかれ」と訓示。復興は苦難続きだったが、GHQから受けた廃油回収作業が認められ、同24年石油元売業者の一社となる。海外資本の傘下に入らず出光は独自の道を歩み、その後「日章丸事件」などを乗り越え、出光の名は海外でも有名になった。
 しかし順調な自社に、逆に佐三は危機感を抱く。「金は国や社会貢献に大切だが、最善の努力で儲けねばならぬ。金儲け目的の会社はいずれ消える」と諭した。昭和41年に世界最大のタンカーを建造した時は、全国から中学生一万五千人を招待、「明日の日本を担う子に大きな夢を抱いてもらいたい」と願った。
 佐三のもう一つの顔は美術品コレクター。伝統文化にも造詣が深く、出光美術館初代館長も務めた。そして昭和56年03月、97歳で天寿を全う。「顧みて、人間尊重の道は正しい日本人の胎動であった」と語ったという。

「人間尊重」の経営哲学

 明治18年(1885年)、宗像の藍商人の息子に生まれた出光佐三は、神戸高商を卒業後、「俺は人間の基本からやり直すんだ」と、会社員にはならずに神戸商人の元に丁稚に入る。家の倒産で親兄弟を養うべく、石油販売店を二五歳で設立しました。中国大陸に販路を広げるも、敗戦で全てを失い、残ったのは265万円の借金と従業員。引揚げてきた千人の社員を解雇することなく温かく迎えたのも「人材こそわが社の資本」という信念があったから。敗戦の二日後「今こそ三千年の日本の歴史を見直し、その国民性を信じ、誇りを持って国土再建にかかれ。日本の真の姿を全世界に示す好機が訪れたのだ」と訓示するなど、創業91年になる出光興産は、今でも出勤簿、労働組合、定年制がありません。

メジャーに抗した「日章丸事件」

 民族主義運動の中イランで革命。新政権は石油を国有化してしまうのですが、石油はイギリス軍の開発によるもので、国際石油資本(メジャー)の力を跳ね除けて、イランの石油に飛びつく国はいなかったのです。当時メジャーとは関係がなく、民族資本、民族経営は出光だけ。一年後、アメリカ関せずの声明を聞いて決断しました。昭和28年03月、当時世界最大級の一万八千トンのタンカー「日章丸」は出航、行き先は船長以外誰も知りません。世界に名だたるイギリス海軍の警戒の下、いつ撃沈されるかとの恐怖の中をペルシャ湾に入った時、船長が目的地はイランのアバダン湾だと伝えると一斉に拍手万歳の声が乗組員から沸き上ったといいます。当時の新聞のトップ記事になりました。その結果ひと財産を築いた出光ですが、労せずして儲ける金は堕落の元だと厳しい訓示を社員に出しました。人間よりも金が大事という拝金思想の風潮に一番反発したのも、佐三翁でした。
出光佐三 – Wikipedia
出光美術館 – Wikipedia
出光興産株式会社創業者出光佐三氏:先達に学ぶ決断の時 | Wisdom
東京福岡県人会・会報『東京と福岡』(抜粋)2005年11月号

評伝 出光佐三―士魂商才の軌跡
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コメント

  1. Ako より:

    娘の就職時に、出光から「難にありて人を切らず」をいただき読みました。感動し、今は馘首・・・を読んでいます。今の時代にこそ必要な人物ですね。出光関連の本を続けて読んでいこうと思っています。