井上伝 久留米絣の創始者

1788年12月29日~1869年04月26日
天明8~明治2年
久留米市生まれ / 多数の弟子に自分の開発した織法を教え、特産の基礎をつくる。


昔の筑後平野の村々からはトンカラリンと機織りの音が響いた。久留米絣(かすり)を織る音である。久留米絣は江戸時代後期には全国区の特産品となり、大正から昭和にかけて黄金時代を迎えた。1957年(昭和32年)には重要無形文化財(国)の指定を受け、1976年(昭和51年)には伝統的工芸品にも指定された。この久留米絣を生み出したのは1人の少女であった。
1788年(天明8年)12月29日、久留米通外町(とおりほかまち)の米穀商「橋口屋」平山源蔵の娘として生まれた。子どもの頃から機織りが好きで、10歳を過ぎる頃には商品になるほどの腕となった。
12,3歳の頃のある日、何度も洗った着古した衣服が色落ちし、ところどころ白い斑点になっているのを面白く、美しく思い、さっそくほどいて研究した。そして糸の一部をくくり藍染めにし、その糸で織って独特の図柄をつくり出した。久留米絣(かすり)の誕生である。15歳頃には名声も上がり、機織りの教えを受ける人も増えた。
1809年(文化6年)、20歳の時、井上次八と結婚し2男1女をもうけた。結婚後も機織りと弟子の指導に当たり、商品は「筑後久留米原古賀織屋おでん 大極上御誂」(ちくごくるめ はらこが おりやおでん だいごくじょう おんあつらえ)の商標をつけ「お伝加寿利(かすり)」として売り出し、好評であった。ところが頼りにしていた夫の次八が病死した。
伝は、生まれ育った通外町に移り住み、子育てとともに絣模様の創意工夫と弟子の教育に勢力をそそいだ。新しい模様を模索する伝は、近くに住む少年、からくり儀右衛門(田中久重)の協力を得て、絵模様の絣(かすり)を作り出した。
技術指導にも熱心だった伝は、晩年になっても遠くまで出張教授をし、筑後の農村一帯に機織りの音のしない家はないといわれるほどになった。1869年(明治2年)04月26日、娘(糸)や孫、多くの弟子達に見守られながら80歳の生涯を閉じた。久留米市寺町徳雲寺に大きな墓碑がある。

k・s

井上伝
inoue den
福岡県人会/会報「東京と福岡」/2004年12月号/13頁

久留米絣 (1969年)
久留米絣 (1969年)

posted with amazlet on 07.01.28
久留米絣技術保存会
久留米絣技術保存会

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