柳原白蓮 筑紫の女王

1885年10月15日~1967年02月22日
東京都麻布生まれ / 年下の宮崎滔天の息子との「世紀の恋』で騒がれた歌人で、福岡の文学グループのリーダーとして活躍。

筑紫の女王 柳原白蓮

*白蓮と伊藤伝右衛門そして宮崎龍介
柳原白蓮…大正時代を生きる人々にとっては、情熱とロマンの象徴。 情熱的な歌人でありながらも平和運動に半生を費やした白蓮。自己の意志を持って生き抜いたその生き方が、今、改めて見直されています。
柳原白蓮の本名は燁子(あきこ)。1885(明治18)年、柳原前光伯爵の次女として東京に生まれる。大正天皇とはいとこにあたる血筋。十五歳で北小路資武と結婚して長男を出産するが、結局離婚となり生家に戻る。24歳で女学校に入学し短歌も学ぶ。
明治44年、26歳の時、52歳の九州の炭坑王・伊藤伝右衛門と再婚。育ちの違いや伝右衛門の女性関係のため二人の結婚生活はうまくいかず、燁子は短歌の世界に深く傾斜していく。
1915(大正4)年、柳原白蓮 第一歌集「踏絵」を刊行、竹下夢二が装丁と口絵を受け持った贅沢な本である。白蓮の才能開花は伝右衛門の援助あってのことでもあった。歌人白蓮の名は世間に広がり、新聞は「筑紫の女王」と呼び、その才能と美貌、裕福さを書き立てた。
大正9年、別府の別荘にいる白蓮のもとへ、東京から戯曲の出版打ち合わせに編集者の宮崎龍介が訪れる。龍介は白蓮より7歳年下で東京帝国大学を卒業したばかり。情熱的で社会革命の理想に燃え熱弁をふるう龍介に白蓮は深く共鳴し、やがて続々と熱い思いを書き送った。
「恋しゅうて、なつかしゅうて、悲しゅうて どうしたらよいやら、りうさま れん」
このような手紙が700通に及び 恋に落ちた二人。やがて龍介の子を宿した白蓮は心を決めた。
大正10年10月、伝右衛門とともに上京のおり、一足先に帰郷する夫を見送った白蓮はそのまま龍介と一緒になるために姿を消した。その二日後、白蓮から伝右衛門に宛てての公開絶縁状が新聞に掲載され、世間は大騒ぎとなった。事件の後、伝右衛門は一族を集め「末代まで一言の弁明も無用」と言い渡し、息巻くヤマの男たちにも白蓮への手出しを禁じたとされる。立志伝中の石炭王・伝右衛門らしい見事な決着のつけ方であった。
かくして自由の身となった白蓮は関東大震災、大戦などの苦難を経験しながらも、平和運動に半生を費やした。
恋に生き、歌に生きた情熱の歌人は、愛する龍介とともに、81歳の天寿を全うした。
「いつしかに 八十とせ生きてつかの間の、露の命のことわりを知る」 (辞世の句)
2006.0919 第5回福岡スピリッツを語る神田紅独演会レポート
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柳原白蓮
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