野村望東尼 維新の母

1806年09月06日~1867年11月06日
文化3年~慶応3年
福岡市生まれ / 平野国臣、高杉晋作等諸国の勤皇の志士の擁護に務め、姫島(糸島郡島町)に流島された勤皇歌人。


2006年12月の立志塾は幕末の女流歌人 野村望東尼がテーマ。高杉晋作や勤王「僧月照を平尾山荘でかくまい、維新の母」とされる望東尼。その像は、明治時代に贋造(がんぞう)されたと考える小河扶希子(おがわすまこ)さんが講師。
小河さんは明治の福岡藩贋札事件で廃藩となった福岡藩家老の末裔(まつえい)で、「憂国の志士 平野國臣」(西日本新聞社発行)の著者。「野村望東尼」を出版。
野村望東尼(のむらもとに)は1806年10月17日に福岡藩士浦野重右衛門勝幸の娘として筑前国早良郡に生まれる。名前は「もと」。
17歳で同藩士に嫁ぐが、離婚。24歳で同藩士野村新三郎貞貫の後妻となる。学問の基礎を亀井南冥派の影響を受けた二川相近に幼少から学び、二川が塾を閉じたのを機に、27歳のときに歌人大隈言道(ことみち)に師事。
1859年に夫と死別後、得度剃髪して招月望東禅尼と称した。高杉晋作ら志士たちをかくまった罪で、60歳で玄界灘に浮かぶ姫島に一年近く流罪になったとされる。
望東尼が晩年に勤王活動にかかわることになった契機とされているのが、1861年の上洛。半年あまり京都に滞在したが、小河氏は望東尼の上洛は長年の夢である文章家として見聞を広めるための名所旧跡巡りが主な目的と語る。というのも、望東尼は当時、不治の病とされた結核を患っており、4人の子どもを結核で亡くしていたからだ。
病気で長期療養をしていたなか、西郷隆盛と錦江湾に入水した月照や高杉晋作など勤王の志士を自身の療養所である平尾山荘に隠したとは考えられないという。
後世の勤王歌人のイメージは、野村望東尼が上洛時に世話になった馬場文永にあてた二十二通の書簡が改ざんされたためと小河氏は結論付けている。
野村望東尼の書簡は福岡市総合図書館が所蔵している。
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生い立ち:文化03年(1806)09月06日、福岡黒田藩家臣、浦野重右衛門勝幸の三女として、城下谷の厩後(うまやじり)に生まれた。名を“もと”と称し、兄弟姉妹七人であった。
父勝幸、馬廻組の士、禄高300石、目付け、詮議奉行等も努めたとある、祖先からの言い伝え等勘案しても、家中で相当の格式を持っていたと想像される。又単なる武辺一片の士ではなく、花月庵南渓と称し、文学、特に生花では東山流の印許も受けていたという趣味人であった。後述するが文才豊かな女流歌人であると同時に、浦野家代々「武」を持って黒田家に重きを成してきており、この遺伝と武士的雰囲気の中に育った彼女が皇国のために生涯をささげることに至るのも自然の成り行きと思われる。
生母は「みち」、筑前糟屋郡植木村の百姓の出、父勝幸三番目の妻(第一、離縁、第二、病没)女中として浦野家にいたが、その性質、容貌のよさも認められ妻として迎えられた。望東尼は少女時代、この母に裁縫・刺繍などを仕込まれ、文政元年、13歳から15歳の年まで藩の家老林直統の家に行儀見習いに入り、母からの感化と合わせ、普通の女性としての成長も伺われる、又後に母に対して特別の感謝と孝養の行動も見られる。
17歳で五百石取り福岡藩士石郡甚右衛門利貫(としつら)に嫁ぐが、20歳も年長の利貫(かなりのプレイボーイで在ったようだ)と上手くいかず半年余で離婚、24歳で四百十三石取り同野村新三郎貞貫(さだつら)36歳の後妻となる。
先妻に三人の子(貞則、鉄太郎、雄之助、既に長男貞則、18歳)望東尼自身も四人の子を産むが皆幼いうちになくなり、貞則は家督相続後自殺、その他も色々で子供にはあまり縁が無かったようである。
望東尼、夫貞貫とも歌が好きで、共々歌人大隈言道(おおくまことみち)の門に入り(望東尼27歳)、言道を生涯の師とした(詩集向陵集」)。40歳で家督を長男貞則に譲り、夫婦とも平尾向岡(むかいのおか)の山荘に隠居、息子達も成人したので花鳥風月を友に歌人としての自適の生活を目指した。54歳で夫死亡、博多明光寺で得度剃髪し「招月望東禅尼」となり、突如上洛する。上洛にはいろいろ理由はあったようであるが、大阪に居た師の言道に会いたいこともあったようである。ここで当時一流の人たちとの交流を得、同時に当時京都で活躍していた諸藩の勤皇の志士とも知り合い、文久元年(1861)から02年、維新を07年後ひかえ、京都の情勢の最も逼迫していた時期の経験は彼女の晩年の勤皇思想に大きく影響したのでしょう。勤皇歌人望東尼の誕生です。
帰福後有名な平野國臣や中村円太等筑前の志士たちが望東尼を尋ね、京の志士達への紹介をしたりで、いつのまにか、平尾山荘が勤皇派のアジトになっていった。城下からも手ごろな距離、本人が尼である等良い隠れ蓑になったようで、勿論本人の考えも含めてのことと推察するが。特筆は高杉晋作も元治元年(1864)長州から逃れて一週間ほど潜居しており、メンバーからは相当に重く、頼られていたようだ。
一方、福岡藩はいろいろの流れから慶応元年(1865)勤皇派を一網打尽の弾圧を敢行、望東尼は女性だから?か芥屋の近くの「姫島」に流された。「ひめしまにき、姫島日記」。慶応02年09月16日に高杉晋作は、かっての恩義に報いるため福岡藩を脱藩して奇兵隊に入っていた藤四郎(ふじしろう)ら六人を姫島に送って望東尼を救い、下関まで連れて行く。高杉晋作は翌年望東尼に見取られて残念ながら亡くなり、その後望東尼は山口から三田尻へ移り薩長連合軍の東上を送るため、防府天満宮に07日間の断食祈願し、やがて病に罹り慶応03年11月波乱に富んだ62年の生涯を閉じる。
女性として、歌人としてその才能、意思を表出し、後年わずか06年くらいであるが、一時代の大きな流れに果敢に挑んでいった意思の強さをこれも表に出しての生き様を見ることができる。
以下を参照しました。
①伝記叢書 150 1994.5.24 発行「野村望東尼伝」(著者) 小野則秋、磯部実(発行者)相川仁童(株式会社)大空社
②「博多に強くなろう①」平成元年02.01 初版第01刷発行 、(福岡シティ銀行編)、葦書房(発行人)久本三多「書中p.320-337:郷土史家、楢崎佳枝子氏の話」から、(聞き手:博多町人文化連盟理事長 西島伊佐雄、小山泰)
T.N
野村望東尼 – Wikipedia
野村 望東尼(のむら もとに)
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