大伴旅人 太宰師(そち)

665年~731年07月25日
天智04年~天平03年07月25日
上流貴族、大納言、歌人。大宰府に約三年間の在任中、神仙思想を有するロマンチックな歌を残し、筑紫歌壇の花を咲かす。


奈良時代の初めの頃、大宰府には歌人としても名を残す多くの人々が集まった。後世の人はこの時期の大宰府の歌人たちを筑紫歌壇と呼んだ。その中心にいたのは大宰帥(だざいのそち、大宰府の長官)の大伴旅人と筑前守の山上憶良である。天平2年(730)01月13日、大伴旅人の官舎で行われた梅花の宴での歌三十二首は万葉集に載せられた。筑紫歌壇の1人であった太宰少弐小野老(おゆ)の詠んだ「青丹(あお)に良し 寧楽(なら)の都は 咲く花の におふがごとく いま盛りなり」はよく知られている。
(略歴)天智4年(665)に壬申の乱で手柄を立てた大伴安麻呂の嫡男として生まれた。母は巨勢郎女(こせのいらつめ、石川内命婦との説もある。)という。大伴氏は軍事を司る屈指の名族で、大伴旅人は和銅3年(710)、左将軍として騎兵を指揮し、隼人や蝦夷を率いて朱雀大路を行進した。720年(養老4年)には征隼人持節大将軍(せいはやとじせつだいしょうぐん)に任じられ南九州の隼人の反乱の鎮圧にあたった。その最中に最大の実力者藤原不比等が亡くなった。大伴旅人は急きょ都に呼び戻され不安定な中央政界の中で重要な役割をはたし、その後中納言として重きをなし、養老5年(721)に従三位、神亀元年(724)に正三位に昇った。
中央政界での権力争いは激しかったが大伴旅人に目立った動きはなく、神亀4年(727)63歳の時、大宰帥(だざいのそち)として筑紫に赴任した。大伴旅人の晩年の子で10歳ぐらいだった大伴家持や妻もともに筑紫の地に赴いた。
大宰府には大伴旅人の2年前に筑前守として赴任していた山上憶良が居た。筑紫歌壇はこの2人を中心に輝かしい一時期が築かれ、貴族・役人たちも多くの歌を詠った。この貴族・役人たちの歌も「万葉集」数多く載せられている。「万葉集」に収められた大伴旅人の76首(56首ともいう)のほとんどは九州で詠まれたものである。酒好きの大伴旅人の酒を讃える歌13首も大宰府在任中の歌である。また望郷の歌・風流の歌・亡き妻を思う歌などがあり歌風は上品・淡泊・自由でロマン的である。
神亀5年(728)妻大伴郎女を亡くした失意の大伴旅人は、長屋王の変で混乱する中央政界の要請もあり、天平2年(730)大納言に昇任し都に帰った。さらに翌年、臣下最高位の従二位に昇ったが、政界の中心にいたのは若い藤原武智麻呂であった。天平3年(731)07月25日、67歳で亡くなった。
大伴旅人 – Wikipedia
旅人
大伴旅人 千人万首

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