貝原益軒(かいばらえきけん) ベストセラー養生訓

1630年11月14日~1714年8月27日
寛永7年~正徳4年
福岡市生まれ / 福岡藩士。医家・儒学者。日本のアリストテレスと言われた大学者として『養生訓』他多くの著書を残す。
70歳で著述業に専念。若い時に病弱でそれが「養生訓」を書くきっかけになったようだ。「短命は生まれながらのものでなく、養生すれば誰でも長生きできる』と説く。享年83歳。金龍寺(福岡市中央区)に墓と銅像がある。

遊民 貝原益軒に学ぶ

「50からが本当の人生~如何に人生を楽しみ長生きするか」
作家 岬龍一郎
健康ブームの現代に先駆けること三百年ほど前、江戸時代の儒学者であり、本草学者であった貝原益軒が書き残した「養生訓」は、時を越え、二十一世紀の現代にも通じる健康法だ。若いころから持病がありながらも、七十一歳で役を退いた後、数多くの著述を残した益軒の人生訓と遊民ぶりを昨年、「中村天風の哲学」を語り、大反響のあった作家の岬龍一郎氏が解説した。
貝原益軒(一六三〇~一七一四)は筑前国(現在の福岡県)に福岡藩士の子として生まれる。幼少から読書家で、本草学や朱子学などを学び、「筑前国続風土記」を編纂(さん)するが、後の時代まで益軒の知名度を高めたのが晩年の著作の数々だ。中でも広く知られる「養生訓」は儒教と道教に基づいた心身の健康法が述べられている。腹八分目など食事の取り方だけでなく、ストレスをためずに楽しく生きることが大切と説いている。そのためには足ることを知り、自分に与えられた分を安んじて全うする“知足安分(ちそくあんぶん)”を揚げている。
これは東郷平八郎や山本五十六など多くの人を魅了した中村天風翁の人生哲学「人生は心ひとつの置きどころ」にも通じる。人は意志がぐらつくと悩みや迷いが出て、ストレスが起こる。心がぐらつかず、これしかない、という心持ちが一番だ。一億人の中から、縁あって選んだ伴侶を「これしかない」という心ひとつで連れ添っていただきたい。
ちなみに益軒の夫人、東軒とは二十歳ほど年が離れていたが、教養人で仲むつまじかったという。それだけに養生訓を書いた益軒でさえも、妻に先立たれたのはこたえ、八十五歳で亡くなった。

益軒先生から中高年諸氏への励ましのメッセージを紹介しよう

人生は五十歳くらいにならないと血気が不安定で知恵も出ない、歴史的な知識にも疎く、社会の変化にも慣れていないので、間違ったことも多く、行いを後悔することもしばしばある。人生の道理も楽しみもよく分かっていない。五十歳になる前に早死にすることは不幸なことだ。長生きすれば楽しみ多く、利益も多い。不可能だったことも可能になる。
五十歳を過ぎてからの人生こそ本物、ということだ。


1630(寛永七)年11月14日、福岡城内の東邸で誕生、父貝原寛斎(1597-1665)の五男として。父寛斎(孫太夫利貞)は黒田藩主、忠之、光之に前後十五年間、食禄百五十石ほどであった。益軒は名を篤信(あつのぶ)、通称は久兵衛と言った。六歳で母死別、母親代わりの「地行婆」という家政婦に当たる人に兄弟共に育てられた。
七歳ころ現在の博多築港辺りに移住、幼い頃から環境もあったか、読書好学の精神が見られ平仮名、片仮名を覚え小説・草子類を好んで読んでいたようである。八歳の冬、父の移動で一家は穂波群は八木山(現飯塚市)に又父、長兄が島原の乱に参加、留守中次兄から漢字、漢詩等を学びいろいろ勉強、読書好きで「平家物語」「保元物語」・・・古典を人に借りて愛読している、彼が「四書」を始めて読むようになったのは十四歳のときである。
十一歳の時、福岡に帰り、さらに怡土群(いとぐん)井原村(前原市前原)に移住、このときに「太平記」を読んでいる。次兄存斎について学んだ益軒は終生特定の師について学ぶことはなかったようである。次兄は医学を学びに京都に留学しているが、医学より儒学を好みしかも仏教を排斥、益軒にも仏教信仰を捨てるように教えている。この影響は大きく、この頃当時の新しい学問、朱子学への第一歩を踏み出した。一方父からも医薬の知識を受け、自らは「医学正伝」「医方撰要」「万病回春」等を読み、ほぼ医薬の道も知るようになっている。次兄について学んだ儒学、十七歳の時に「小学」を読んでいる。
1648(慶安元)年、十九歳の時に初めて出仕、藩主忠之の御納戸御召料方(おなんどおめしりょうかた)という衣服調度の出納係りの近侍となり四人扶持を受けるようになった、これ以降四十八年間、光之・綱正と三人の藩主に仕えてさまざまな業績を残した。
出仕・長崎生活・浪人・江戸生活(十九-二十七歳)、生涯十二回江戸へ、京都へは二十四回も行っている、福岡藩長崎警備で藩主に同行、一時期藩主の機嫌を損ね、免職、浪人生活(七年間)にもなっている。この間自費で前後三回にわたって長崎に遊学、積極的に中国文化の摂取・吸収に務め、唐通事・蘭通事とも交際している。長崎での医学修行等を経て、1655(明暦元)年二十六歳の時、父寛斎を世話するために江戸へ、そのとき髪をそり、名を柔斎と改め医者に、長崎での勉強、又父の影響もあったと思われる。江戸では藩邸内の藩士に親愛されその力量も認められていた。またこの頃から医学より儒学に力を入れ、林羅山(1583-1657)又その第三子、当時三十八歳の林鵞峰(1618-80)等としばしば交流している。同年(27歳)福岡に帰り藩主交代(光之)微禄であるが六人扶持で再出仕している。
再出仕・京都遊学(二十八歳-三十五歳)藩主、黒田光之に仕え、1657年水郷柳川の立花家、立花勘左衛門重種の組に配置、この後長く交際する。早々に京都遊学の命、儒者、松永尺五(1592-1657)・山崎闇斎(1618-82)等訪問、尺五死後、その門人木下順庵(1621-98)と交流している。一年近くその講義を聴き、二人の間には学友的な交情があった。又この間いろいろの人との出会いをしているが、中で、向井元升(1609-77)、宮崎安貞(1623-97)は益軒が本草学に興味を持つようになったことで多大の影響を与えている。1664(寛永四)年、三十五歳で帰藩、
(三十六歳-五十五歳)三十九歳で結婚、黒田藩の支藩、秋月藩士の江崎広道の娘初(はつ)と、当時十七歳、に東軒と称した。夫人は和歌にすぐれ、筝・胡琴の演奏に巧みで一緒に演奏を楽しんだり、夫婦合作の軸物も伝わっており、年齢は離れていたが仲の良い夫婦であったようである。幼君の教育、京都等での他学者との交流等々を盛んにしている。この時期の著書類、京都での最初の著書「易学提要」又、「読書順序」等、四十歳、藩主光之から久兵衛の名を賜り、計二百石の扶持となる。再度主君参府の伴って江戸に入り、他学者交友、又既に朱子学尊崇をしていた益軒は「近思録備考」、「朱子文範」を著し、さらに深めている。帰藩後、福岡城郭に近い荒津東浜(荒戸町)に邸宅が与えられ、ここを終生の安住の地とした。京都遊学、その他各地巡遊・・・処々勉学に励み、又多数の書編纂等々の充実した活動をしている・・・詳細省略(下記参考書物参照)。
その後も諸国巡遊(五十六歳~七十歳)を続け1685年、「西帰吟行」・・等、又継続して多数の著書あり(略)
(七十一歳~八十五歳)諸学の大成と晩年 1700(元禄十三)年七月(七十歳)益軒は辞職を許された。1701年、著書「近世武家年略」「至要編」「宗像風土記」1702年、「音楽記聞」「扶桑記勝」の修補、「黒田家譜」の最終改訂をした。1703年、「和歌紀聞」「黒田忠之公譜」・・、1704年(宝永元)「宗像三社縁起並附録」「菜譜」その後も多数の著書(略)
1707(宝永四)年、七十八歳、久留米の高良山に登り、古蹟を探訪するなど心身ともに旺盛で健康に注意してきた彼は、本草学の造形が深く自分や、妻を始め肉親・知人のために薬を調合したことが日記のあちこちに見られる。上京する弟子に和漢の薬草の注文を出したりもしており、晩年の「用薬日記」になり、又有名な「養生訓」に繋がっていく。 1713(正徳三)年、東軒夫人、六十二歳で病没、福岡、金龍寺で葬儀、その墓は今もなお、益軒の墓と並んで長い年月、風雪に耐えている。この年「養生訓」が著されている。 1714(正徳四)年、愛妻に先立たれすっかり意気消沈、遂に08月27日息をを引き取った、享年、八十五歳。
参考にした本  「ふくおか人物誌(Ⅰ)・・貝原益軒」  西日本新聞社

T.N.

貝原益軒 – Wikipedia
貝原益軒
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