アマテラスの娘・宗像三女神物語

『アマテラスの娘―宗像三女神物語』の舞台

北部九州と朝鮮半島を結ぶ海、玄界灘。
古来、その海は大陸との交流の舞台となった。
その荒波に浮かぶ孤島、沖ノ島。
航海の困難さから、海を渡る人々は、
波間に蒼然と現れる沖ノ島に神が宿ると見た。
「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議発行『沖ノ島―守り、伝える。』より抜粋

『アマテラスの娘―宗像三女神物語』は悠久の昔よりこの宗像から始まります。

国を守る三女神は、皇祖神・天照大神の命を受け慈愛の御心で、私たちを正しき道へと導き給うために降臨くだされたのです。別称、「道(みち)主(ぬし)貴(のむち)」。「貴(むち)」とは神に対する最も尊い呼び名で、我が国では天照大神(伊勢神宮)の「大日婁(おおひるめ)貴(のむち)」。大国主命(出雲大社)の「大己(おおな)貴(のむち)」だけなのです。「道(みち)主(ぬし)貴(のむち)」は、最高の道の神を表し、古代より大陸へ渡る遣唐使、玄界灘で漁を生業とする海の民より航海安全の神として崇敬を集めてきました。

国家鎮護の神として神(じん)功(ぐう)皇后(こうごう)の三韓ご渡航、元寇、足利尊氏の西下、日本海海戦など、時代を超えてご神威(しんい)を発揚されているのです。

神湊から60㎞。「神宿る島」沖ノ島・沖津宮には宗像三女神の長女・田(た)心(ごり)、49㎞下った大島・中津宮に次女・端津(たぎつ)姫(ひめ)、海を見守る高台・宗像高宮斎場(辺津宮)に三女・市(いち)杵(き)嶋(しま)姫(ひめ)が鎮座されています。宗像三女神を祀る神社は全国に6,226社あり、宗像大社は総本宮として篤い信仰を今に伝えています。


芸道40年記念チャリティー独演会
第6回 神田紅独演会
平成29年5月20日(土)

 「アマテラスの娘~宗像三女神物語」神田 紅

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序の段

昔々、気の遠くなるほど悠久の、昔々のことでございます。天界と地上の境すら定かでないその昔、我が国が、葦原(あしはら)中国(なかつくに)と呼ばれていた頃のことでございます。正しくは、豊葦原之(とよあしはらの)千秋(ちあき)長(なが)五百(いほ)秋之水(あきのみず)穂(ほ)国(のくに)と呼び名されておりましたそうにございます。

豊かな水を自在に操る民の国、その、我が国の始まりは、伊邪那(いざな)岐(ぎ)尊(のみこと)、伊邪那(いざな)美(み)尊(のみこと)のお話に遡(さかのぼ)るのでございます。悲しく黄泉(よみ)の国へと旅立たれた伊邪那(いざな)美(み)尊(のみこと)を追って、伊邪那(いざな)岐(ぎ)尊(のみこと)が連れ戻しに行かれたのは良いのですが、決して覗(のぞ)いてはならぬという掟(おきて)を破ってしまわれたため、あさましいお姿を見られた恥ずかしさと怒りで黄泉の鬼神と化した伊邪那(いざな)美(み)尊(のみこと)との終(つい)の別れが待っておりました。

禊(みそぎ)で身を清められた際にお生まれになったのが、天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)、月読(つくよみ)尊(のみこと)、須佐之男(すさのお)尊(のみこと)の三貴神にございます。左の眼を洗った時にアマテラス、右の眼を洗った時にツクヨミ、鼻を洗った時にスサノオが生まれ、伊邪那(いざな)岐(ぎ)尊(のみこと)はようやく国造りの最後の神を送り出した安堵感で淡海に御身を落ち着かせたのでございます。

天に照り輝く太陽をつかさどるアマテラスは、八百万(やおよろず)の最高神として父神伊邪那(いざな)岐(ぎ)尊(のみこと)より国造りを託されます。

「我が国の総氏神(そううじがみ)となり安寧な世を創るのじゃ。我が妻イザナミと生みし、この国はいまだ定まっておらず道も開けてはおらぬ。そなたが弟神を教え導き慈しみ、この国の御祖(みおや)神(がみ)となるのだ」。

しかし、でございます。弟神は乱暴で言うことを聞かないのでございます。まず始めは月をつかさどる月読(つくよみ)尊(のみこと)でございます。アマテラスの使いで食物神であった保食(うけもちの)神(かみ)を訪ねたツクヨミでしたが、思わぬ事件を起こしてしまいます。保食(うけもちの)神(かみ)は陸地の方を向いて口から飯を出し、海の方を向いて口からハタを出し、山に向いてヤマの食べ物を出し、ツクヨミをもてなそうとしたのですが、「汚いっ!」と斬り殺してしまうのです。

この暴虐にお怒りになったアマテラスは、

「二度とそなたと相(あい)見(まみ)えることはない!」

と仰せられ、両神は一日一夜を隔てて住むようになったのでございます。哀れ、もてなしのために食物を口から取り出したがために殺されてしまった保食(うけもちの)神(かみ)でしたが、その死体からは頭に牛馬、額に粟、眉上に蚕、目の中に稗が、腹の中に稲が、陰部に麦と大豆が生まれていたのでございます。

アマテラスは、たいそうお喜びになり、これらを地上の人々の食物や農業に使うことにし、さらに女神は蚕(かいこ)の繭(まゆ)を口に入れ糸を引きだし、これが養蚕の初めとなったのでございました。

末の弟神スサノオはと言えば、毎日毎夜、亡き母神・伊邪那(いざな)美(み)尊(のみこと)に会いたいと駄々をこね、泣きじゃくるあまり天地は轟(とどろ)き、暴風雨は吹き荒れ、その姿は目を覆うばかりの凄まじさでありました。髭(ひげ)は伸び放題で顎(あご)から地面についてしまうという奇怪さで、とても三貴神のお姿ではございません。

さすがに父神イザナギの怒りを買ってしまわれるのでございます。

「お前は根の国に行け!」

父神に逆らうことなど到底ありえないこと。スサノオは、泣く泣く高天原を離れ地上に降(くだ)ることになってしまうのでございます。もともと海原をお治めになるよう仰せつかっていたにもかかわらず、お役目も果たさず、泣いてばかりいたのですから仕方ありません。根の国とは黄泉の国のことにございます。

「そんなに母が恋しければ黄泉の国へ行ってしまえ」

とのご命令であったのでございます。

ちなみに神話の中で宇宙は三層構造になっていたのでございます。すなわち高天原(天)、葦原中国(地)、黄泉の国(地下)。天界と地下界にはさまれた空間だから中国(なかつくに)なのです。

無理もありません。散々、乱暴(らんぼう)狼藉(ろうぜき)を働いたのですから。今さらながら思い至ってもいかにも名残惜しい。スサノオは、地上に降る前に姉のアマテラスに一言暇乞(いとまご)いをしたい。亡き母神イザナミに瓜二つという美しい、輝くばかりの顔を一目見たい。姉神アマテラスの神殿を訪ねることにしたのでございます。それを伝え聞いたアマテラスは、にわかに騒めきます。

「これは大変なこと。あのスサノオのこと。何をしでかすかわからない。もしや力づくで高天原を乗っ取るのかもしれない。皆の者、武具を用意するのです」。

長く垂らした黒髪をみずらに束ねて男装し、剣を構えた凛々しい姿は今にも戦いに臨む軍神の様相でありました。

「スサノオ、何しにやって来たのだ!」
「姉上、お暇乞いに決まっているではありませぬか」。
「それはまことか?」
「天地神明に誓ってまことにございます」。
「して、では、それを証明できるか?」
「もちろんでございます」。

そこで、うけい(宇気比)が行われるのでございます。うけいとはいわば誓いを証明する占いのこと。まずアマテラスがスサノオの持っている十拳(とつか)の剣を受け取って天真(あめのま)名井(ない)ですすいで嚙み砕き、吹き出した息から三女神を生みました。

占いを行う前に、スサノオは自分の心にウソ偽りがなければ、清らかな姫神が生まれると誓っておりましたので、邪心がないことが証明されたのでございます。

「姉神様、このように私のまことが証されましたがゆえに、私の剣から女神が生まれました」。

古代の人は自分の潔白を示すのに、自分の持ち物を使うことが多かったようです。時には自分の体を使ったり…。たとえば熱湯に手を入れる盟神探(くがた)湯(ち)などということもありました。

アマテラスが生んだ三人の姫神。それはそれは美しい三姫神でございました。

長女の姫神は田(た)心(こり)姫(ひめ)、次女の姫神は端津(たぎつ)姫(ひめ)、末の姫神は市(いち)杵(き)嶋(しま)姫(ひめ)と名付けられ、宗像の地に降り国を治める天孫を守り導くようご下命があったのでございます。
一方、スサノオはアマテラスの勾玉(まがたま)を貫いていた長い緒(お)である御統(みすまる)を受け取り噛み砕くと、その息から天之(あめの)忍(ほし)穂(ほ)耳(のみみ)命(のみこと)をはじまりとし、天之菩卑(あめのほひ)能(の)命(みこと)、天津(あまつ)日子(ひこ)根(ね)命(のみこと)、活津(いくつ)日子(ひこ)根(ね)命(のみこと)、熊野玖須毘(くまのくすび)命(のみこと)の五柱の男神を生んだのでございます。

アマテラスは仰せになりました。

「スサノオよ、我らが生みし子らは地上に降り、幾百幾千幾万の民の礎となる国を治め、守り、大海原に道を開き、安寧(あんねい)な世を創る要(かなめ)としようぞ」。
「はい」。

ところが、誓約(うけい)を経て潔白が証明されたスサノオでございましたが、その勝利に驕(おご)った勢いで、これまで以上に傍若無人(ぼうじゃくぶじん)なお振舞いに出たのでございます。田の畔を壊し灌漑(かんがい)の溝を埋め、新穀(しんこく)を召し上がる大嘗(おおなめ)神殿に汚物を撒(ま)き散らすなど、その狼藉は以前の比ではありません。乱暴はさらに激しさを増し、機織(はたお)り部屋に皮を剝がされた馬が投げ込まれ、驚きと恐怖のあまり織女の一人が亡くなってしまうに至っては姉神アマテラスも庇(かば)いきれず、天岩屋に籠(こも)ってしまうのでございます。

お籠(こも)りになった瞬間です。世界はたちまち暗闇に閉ざされ邪悪がはびこり、災いが世の果てにまで及ぶようになったのでございます。すべての世界から光が奪われた、その暗黒の世界はもはや終焉を物語っておりました。草木も育たず生けるものは皆、心さえ閉ざしてしまったかのような暗黒です。

八百万の神々はただ事ではない事態を憂え、天安(あまのやす)河原(かわら)に集まり知者である思兼(おもいかね)神(のかみ)を中心に知恵を出し合います。ああでもない、こうでもない。そこで出された秘策がまた意表をつくものだったのでございます。

まず、伊斯許理度売(いしこりどめ)命(のみこと)の命を受けた鍛冶師の天津(あまつ)麻(ま)羅(ら)が鏡を作ります。次に玉(たま)祖(のおやの)神(かみ)が勾玉(まがたま)で飾った玉飾りを作りました。その玉飾りで祈りを捧げます。岩屋に結界を張るための注連縄(しめなわ)を天(あめ)太(のふと)玉(だまの)神(かみ)が作り、準備が整ったところで天児(あめのこ)屋根(やねの)神(かみ))が岩屋の前に立ち、美しい声で朗々と祝詞(のりと)をあげるのでございます。

「なんとめでたいことであろうか。貴い神がお越しくださった。我らのために幾千幾万年も栄えてお守りいただけるとはなんと有り難いことであろうか」。

怪訝(けげん)に思うアマテラスに、さらに賑やかな笑い声が響いてきたのでございます。天鈿(あめのう)女神(ずめ)が岩屋の前で伏せた桶の上に乗り、足を踏み鳴らし乳房や陰部までさらけだして踊るので、集まった神々はやんややんやの喝采。暗闇に覆われているのに天地が揺れるほどの大笑いでございました。

「何事であろうか」。

堪(たま)らずアマテラスが細く岩屋の戸を開けると天(あめ)太(のふと)玉(だまの)神(かみ)が鏡を差し出したのでございます。そこに映っていたのは光り輝く神々しい姿。それがよもや自分を映したものとは思わず、アマテラスはさらに身を乗り出します。と、その瞬間です。待ち構えていた怪力の神・天手(あめのた)力男(ぢからおの)神(かみ)がグッと岩屋の戸を開け、アマテラスを引っ張り出したのでございます。と、同時に天(あめ)太(のふと)玉(だまの)神(かみ)は注連縄(しめなわ)で二度と隠れないように封印をしたのでした。

アマテラスを映し出したイシコリドメノミコトとアマツマラが作ったのは八咫(やたの)鏡(かがみ)と呼ばれ皇位継承のシンボルとなった三種の神器の一つであり、タマノオヤノカミが作った勾玉も八尺瓊(やさかにの)勾玉(まがたま)と称される神器の一つとなったのでございます。

さらに言えば、アメノウズメは岩屋の踊りの後、アマテラスに側近として愛され、その御心をお慰めする役目を果たし天孫降臨に随行して地上に降るのでございます。地上に降っては道案内を務めた猿田彦(さるたひこの)神(かみ)と結婚して猿女(さるめ)君(きみ)の祖(おや)神(かみ)となったのでございます。

天地に光がよみがえり、暗闇は生きるエネルギーを取り戻したのでございます。八百万の神々がスサノオを今度こそ高天原から追放しようと決起したことは申すまでもございません。もはや天界に居場所を失ったスサノオにアマテラスは仰せになるのでございます。

「スサノオよ、何ゆえ、そなたは荒れるのじゃ。何にそれほど憤るのじゃ」。
「姉神アマテラスよ。私は母に会いたかっただけなのでございます」。
「天地が割れるほど泣き叫べば、暴れれば会えるのか?」
「・・・・」。
「父神でさえ、成し得なかった母イザナミの甦(よみがえ)りを子である我らができるとでも思うたか?」
「・・・・」。
「では、何ゆえ母イザナミは火の神などを生み給うたのか?命が潰(つい)えると解っておられていたはずなのに」。
「この世に火の神が必要と思召(おぼしめ)されたからに決まっているではないか」。
「この世に必要であれば、己が命まで差し出せねばならぬのですか」。
「父神イザナギ、母神イザナミが願い創り給うたのは、生を享(う)けしすべての者が豊かに暮らしを営み、日々の苦しみの中から幸(さち)を見出す世界なのだ」。
「・・・・」。
「スサノオよ、苦しみがないことが幸なのではない。与えられる苦しみや困難に打ち克(か)つことに幸があるのだ」。
「生ある者に終わりがあって、はじめて生への喜びがもたらされるのだ。そなたは終わりのない命が欲しいか?喜ぶことを知らぬ、感謝を知らぬ生を久遠のまま生きたいのか。黄泉(よみ)に往(ゆ)かれた母イザナミには会うこと叶わぬが、母の心は我らが命に受け継がれているのではないのか」。
「何ゆえ、姉神はそのように母の心がお解りになるのでありましょうか」。
「女は女と生まれ落ちた時から母なのだ。己が体の中に海を持っているゆえ、母となることが定められているのだ」。
「私は根の国に降ります。海原は我が子らに治めさせましょう」。
「スサノオよ、誓約(うけい)で生みし、そなたの子ら五男神は、私が引き取って育てよう。もとは私の勾玉(まがたま)を砕いて生まれた神たちである。我が子も同じこと。そなたの剣を噛み砕いて生みし三女神は、約束通り宗像の地に遣わす。我もまた、時機が来たれば地に降ることを約束しよう」。

こうしてスサノオは、根の国の番人として出雲の地に降られ、八(や)岐(またの)大蛇(おろち)退治(たいじ)など人々の苦境をお救いになる境涯へと改められたのでございます。退治の際に八(や)岐(またの)大蛇(おろち)の尾から出て参りましたのが、草薙(くさなぎ)の剣でございます。スサノオはこれまでの非道を詫びる証しとして、この草薙(くさなぎ)の剣を姉神アマテラスに献上されるのでございました。

「八尺瓊(やさかにの)勾玉(まがたま)と八咫(やたの)鏡(かがみ)、そしてこの草薙(くさなぎ)の剣の三つを神器とし、子々孫々に伝えよう。そなたの真心と私の願いが国を正しく導くように」。

三角縁神獣鏡(国宝)

破の段

アマテラスの三女神が遣わされた地は、玄界灘に位置する広い一帯でございました。三女神の母神アマテラスは仰せになられました。

「娘たちよ、道中(みちなか)に降り天孫(あめみま)を助け奉り天孫(あめみま)に祭(いつ)かれよ」

道中(みちなか)とは海外との通路であった筑紫の北の海の中を指すのでございます。アマテラスは三女神にこの日本海(玄界灘)に降臨して、我が国を囲む大海原の守護神となり、天孫すなわち天皇のまつりごとをお助けすることをお命じになられたのでございます。そして、加えて和の道を説かれたのでございます。

「娘たちよ、決して争ってはならぬ。怠ってはならぬ。驕(おご)ってはならぬ。すべてに通ずる道を明(あき)らけく示すのじゃ」。

和の心こそ国の根幹をなすものであると仰せになられ、海に四方を囲まれた国を治める天皇に海の路をお示しすることを重ねて御言葉にされたのでございます。怠ってはならぬとは働くことの手本を示すことにございました。相争って奪うのではなく、稲穂を実らせ蚕を紡ぎ、世界の民を同胞として心豊かに暮らすことを天孫に伝えよとお命じになったのでございます。

三女神が降られたのは宗像崎(さき)門山(とやま)と言われておりますが、この時、青(あお)迩(にの)玉(たま)、八尺(やさか)迩(にの)紫(むらさきの)玉(たま)、八咫(やた)鏡(のかがみ)を御印として携えられ、それぞれ奥宮、中宮、辺津宮にご神体としてお納めになり御身を隠されたのでございます。なぜ、隠さねばならなかったのかと申しますと男神からの度重なる求婚から逃れるためであったのでございます。光り輝くアマテラスを母とする三女神の美しさは、三界にあまねく知れ渡っており、神々の思慕を募らせるに余りあるものだったのでございます。特に、際立っておりましたのが末の姫神であらせられた市(いち)杵(き)嶋(しま)姫(ひめ)にございました。神と国に身を捧げることが定められた身であることを三姫神は、お互いに知っておりましたから、力に屈することがないように協力して撃退しておりましたが、兄神のお一人・活津(いくつ)日子(ひこ)根(ね)命(のみこと)は、なかなか諦めようとなさらなかったのでございます。父神スサノオの若かりし頃の凄まじさに勝るとも劣らない猛々しい所業に姫神は心を痛めておりました。

母神アマテラスが、活津(いくつ)日子(ひこ)根(ね)命(のみこと)の長兄・天之(あめの)忍(おし)穂(ほ)耳(みみ)命(のみこと)に国譲りを行い、降臨するようにお命じになられたことに端を発した所業にございました。五柱の兄弟神のなかでも、ひときわ秀麗で勇敢な活津(いくつ)日子(ひこ)根(ね)命(のみこと)は長兄への邪(よこし)まな嫉妬に苛(さいな)まれ憎悪を募らせるのでございます。美しい三女神を娶(めと)ることで神々に先んじた立場を示し、国譲りを受けたいとの企みだったのかもしれません。父スサノオに代って治めていた海は荒れ狂い、暴風雨が民を苦しめておりました。ついに三女神は姿を現さないわけには参らなくなってしまったのでございます。

「何ゆえ罪もない民を苦しめるのでありましょうか」。

田心姫(たごりひめ)は、美しい顔に眉をしかめて問いただしたのでございます。

「そなたら三女神のうち一人が、我がものになるならすぐさま嵐は収まるであろう」。
「我らは、母神アマテラスの命によりこの地にて民を守り、天孫を助けるために降って参ったのです。母の命に背くわけには参りません」。
「では端津(たぎつ)姫(ひめ)、そなたもか」。
「姉神の仰せの通りでございます」。
「市(いち)杵(き)嶋(しま)姫(ひめ)、お前はどうだ」。
「同じことにございます。母神、姉神の仰せの通りにございます」。
「いかにも頑(かたく)ななことよ。それならば、海を渡るすべての者共に苦痛を与えよう。争いの種を撒き散らしてやろうぞ」。
「貴方様がそのようになさるのならば、我ら三人は、身を投じても海を守り抜き、未来永劫、国の母となることを誓いましょう。我ら三女神が争いの道具になるくらいなら、民のために身を投げ出すことなど露ほども厭(いと)いません」。

田(た)心(ごりひめ)姫は龍に姿を変え、するすると天に舞ったかと思うと、玄界灘に浮かぶ絶海の孤島・沖ノ島に鎮座したのでございます。

「姉神様!」

市(いち)杵(き)嶋(しま)姫(ひめ)の悲鳴にも似た驚きの声が響き終わらぬうちに、端津(たぎつ)姫(ひめ)もまた龍となり、天を舞った後に沖ノ島より南、大島に鎮座なさったのでございます。

「姉神様!」

悲鳴は絶叫に変わりました。が、その時でございます。姉神の声が響き渡ったのでございます。

「市(いち)杵(き)嶋(しま)姫(ひめ)よ、そなたは地上に在って道守りを行い、我らとともに正しき道に導くのだ。我ら姿を変えても姉妹にあることに変わりはない。決して争ってはならぬ。怠ってはならぬ。驕ってはならぬ。母神アマテラスの思いを天孫に伝え導くのだ」。

あたりは不思議な静寂に包まれ、一筋の光が次第に輪になって海を照らしておりました。その光景に我を忘れておりました活津(いくつ)日子(ひこ)根(ね)命(のみこと)は、恐ろしさのあまり海に身を投じたのでございます。すると、海は裂け目を生じ、深い深い溝を作ったのでございます。沖ノ島の西(宗像郡玄海町の北西2キロ)に浮かぶ地ノ島のあたりでございます。響灘と玄海灘の境界に位置するこの島は、田(た)心(ごり)姫(ひめ)と端津(たぎつ)姫(ひめ)のおわします沖ノ島と大島を守るように、北西から南東に長く海の底には溝を這わせて近づく者を遮って横たわりました。

高天原でご覧になっておられました天之(あめの)忍(おし)穂(ほ)耳(みみ)命(のみこと)は、アマテラスに願い出て国譲りを息子の瓊瓊(にに)杵(ぎの)尊(みこと)にお譲りになるのでございました。

やがて、天鈿(あめのう)女神(ずめ)とともに猿田彦神(さるたひこかみ)の道案内でお孫君にあたる瓊瓊(にに)杵(ぎの)尊(みこと)の降臨にお立合いになったアマテラスは、国譲りをお済ませになると伊勢の地にお入りになられたのでございます。

「我が孫、瓊瓊(にに)杵(ぎの)尊(みこと)よ、我が娘ら三女神を祭り正しき道を往かれよ。三女神が必ずや汝が開き治める国の守りとなろう。子々孫々に永遠の誓いを立てよ」。瓊瓊(にに)杵(ぎの)尊(みこと)はその後、此花咲耶姫(このはなさくやひめ)と結婚し、火(ほ)照(でりの)命(みこと)(海幸彦)、火須勢(ほすせ)理(りの)命(みこと)、火(ほ)遠理(おりの)命(みこと)(山幸彦)をもうけたのでございます。この末の子・火(ほ)遠理(おりの)命(みこと)の四番目の息子・伊波礼彦(いわれびこ)命(のみこと)こそが、我が国初代の神武天皇となられるのでございます。

沖ノ島・沖津宮と大島・中津宮をはるかに望む辺津宮に座し、姉神とともに海路を往くすべての者の安寧と天孫の御代の安泰を願って過ごした市(いち)杵(き)嶋(しま)姫(ひめ)の御座所にはいつも美しい花が咲き、木陰が人々を癒し、小鳥が戯れておりました。その瞳は常に姉神の海に注がれていたのでございます。

そしてまた、海をお守りする姫神の長・田(た)心(ごり)姫(ひめ)が鎮座まします沖ノ島・沖津宮には航海の無事に感謝する海人(あま)たちの膨大な献上品が祈りとともに捧げられるのでございます。

市杵嶋姫は後に弁天様として祀られるなど多くの信仰を集めました。平清盛が寄進したことで知られる安芸の宮島・厳島神社も市杵嶋姫を祀っています。

宗像三女神を奉斎する分社は全国に6226社にも数えられているのです。

福岡県宗像市沖ノ島南方の玄界灘付近から朝倉市にかけて西山断層帯が分布しています。福津市津屋崎を経て朝倉郡東峰村及び朝倉市に至る、この断層帯は、全体として長さ約110km。神の道の亀裂のようです。

宗像大社文書(重要文化財)

急の段

さて、物語は続くのでございます。

我が国が大いなる和、大和(やまと)と名を改め、海の向こうで高句麗・新羅・百済が覇権争いをしていた頃、高句麗・百済連合軍は、大和へ支援要請の使者を遣わしたのでございます。天孫は神武天皇より数えて十四代。仲哀天皇の御代にございました。

海の向こう、新羅から渡来した国王の御子・天之(あめの)日(ひ)矛(ぼこ)は、但馬(たじま)国(のくに)に留まった際に娶(めと)った前津(さきつ)見(み)との間に多遅摩母呂須玖(たぢまのもろすく)をもうけます。この女性が長じて仲哀天皇の后となり神功皇后と諡名(おくりな)される気(おき)長足(ながたらし)姫(ひめ)の母上なのでございました。

すなわち神功皇后(気(おき)長足(ながたらし)姫(ひめ))の母方の祖先は、たどれば新羅国王につながるということでございます。その神功皇后が新羅征伐に出兵なさるというのですから、奇縁を思わずにはいられません。
仲哀天皇の后となった神功皇后はまつりごとに長け、よく仲哀天皇を助けました。お二人は仲睦まじく、神功皇后におかれましては、すでに胎内に御子を宿しておられましたのでございます。

しかし、熊襲征伐のために立ち寄った神社にて三韓征伐の神のご託宣を賜ったお二人は、意見が異なってしまいます。無情にも仲哀天皇は神の御言葉を疑ったために急死してしまうのでございます。

「海を渡って我が国を侵略せんとする者は阻まねばならぬ。いずれ高句麗も百済も新羅征伐を成した後に、我が国に攻め入ってくるやもしれぬ」。

神功皇后は、意を決して筑紫から玄界灘を渡り、朝鮮半島に出兵したのでございますが、その折り、皇后は玄界灘の海上・沖ノ島あたりにて不思議な声を聴くのでございます。
「争ってはならぬ。海を戦場とするべからず。海の民を苦しめてはならぬ。地
の民を苦しめてはならぬ。我らが祖・天の神を悲しませてはならぬ」。

けれども、どのように槍(やり)矛(ほこ)を納めさせることができるでありましょう。応戦を拒めば、戦いの矛先は我が国に及ぶかもしれない。神功皇后は悩みます。

船が伽耶(から)を経由し新羅に到着した時のことでございます。百数隻の軍船を率い、その船団の中央の船に乗り、さらに舳先(へさき)に現れた神功皇后の姿を見た敵兵たちは言葉を失うのでございます。神々しいまでに輝き、威厳に満ちた様子は、女神のようで畏れさえ抱かせたのでございます。その声もまた、命そのものに響くような荘厳で美しいものでございました。

「私は新羅国王・天之(あめの)日(ひ)矛(ぼこ)の曾孫を母に持ち、やまと五代天皇景行天皇の裔(えい)を父に持つ者である。神の御言葉によってこの地に参りました。争いを治め、どうか海を通じた友として弥栄(いやさか)の安寧をともに享けて参りましょう。もし、新羅国王の御心を抱く私の言葉に添えぬと思召(おぼしめ)されるならば、今、この場で私はこの身を海に身を投じます。あるいは首を差し出すことに何の躊躇(ためら)いもありません」。

かくして新羅は戦うことなく降伏し、貢物(みつぎもの)と人質までも差し出したのでございます。高句麗、百済もこれに倣(なら)い貢物を差し出し、神功皇后は一兵も失うことなく帰途についたのでございます。身籠られたまま出兵なされた神功皇后が出産を遅らせるために抱いたという月延石や鎮懐石と呼ばれる石は、それぞれ長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたのでございます。仲哀天皇忘れ形見の御子・応神天皇を出産されたのは、筑紫の宇美でございました。

時は下って明治三十八年、第122世・明治天皇の御代、我が国は未曾有の困難に直面しておりました。二百六十年もの鎖国から解かれ、明治維新という革命からまだ三十八年。新たな社会体制づくりの真っ只中にありながら、日露戦争に突入せざるを得なかったのでございます。国土60倍もの大国・ロシアに挑む日本の苦渋の選択を誰が納得しえたことでございましょう。しかしながら、戦いの火蓋は容赦なく切って落とされ、日本は危機に立たされたのでございます。

「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とは、日本海軍率いる東郷平八郎司令長官の言葉にございます。我が国の存亡をかけた乾坤(けんこん)一擲(いってき)の戦いの舞台が、ここ宗像三女神が守り給う玄界灘・沖ノ島沖であったのでございます。

この海戦は日本海軍連合艦隊と、ロシア海軍太平洋艦隊すなわちバルチック艦隊との間で行われ、連合艦隊はロシア海軍両艦隊を撃滅し戦力のほとんどを失わせましたが、連合艦隊の損失はほとんどないという海戦史上稀(まれ)に見る一方的な勝利となったのでございます。これにより日本は、米国大統領セオドア・ルーズベルトの協力を得てポーツマス講和会議への道を開くに至ったのでございました。

東郷平八郎司令長官は、この勝利を祝して戦艦「三笠」の羅(ら)針(しん)儀(ぎ)を宗像三女神を頂く宗像大社に奉納されたのでございます。羅針儀とは方位を指し示し、往くべき航路(みち)を教える重要なものにございます。道(みち)主(ぬし)貴(のむち)として、すべての者に正しく安全な道を授ける三女神のお声に触れられたのでございましょうか。奇跡的な勝利を得た東郷平八郎司令長官は、三女神の御心にもかなうお振舞いをなさるのでございます。

ロシア側の6,000名以上もの多くの捕虜が乗艦の沈没により海に投げ出されましたが、日本軍の救助活動によって救命されたのでございます。対馬や日本海沿岸に流れ着いたものも各地の住民に手厚く保護されました。それは戦時国際法に忠実であっただけでなく、争ってはならぬ、お互いを尊重しあわねばならぬという和の精神が日本に息づいていたからに他なりません。ロシア兵捕虜は、日本国民が戦時財政下の困窮に耐える中、十分な治療と食事を与えられ、健康を回復し帰国することができました。

負傷し捕虜となったバルチック艦隊司令官ロジェストヴェンスキーは長崎県佐世保市の海軍病院に収容されておりました。東郷平八郎は軍服ではなく白いシャツという平服姿で見舞いに行かれ、病室に入るとロジェストヴェンスキーを見下ろす形にならないよう枕元の椅子に腰掛けられ、丁寧に言葉を尽くし敗軍の提督を労ったのでございます。ロジェストヴェンスキーは

「敗れた相手が閣下であったことが、私の最大の慰めです」。

涙を流され、何度も述べられたのでございました。

日本では、日本海海戦で勝利したこの日、5月27日が海軍記念日に制定されました。しかし、これは勝利のための記念日ではなく、平和を希求する誓いの日とするための記念日にございます。

宗像大社ではこの日の我が国の誓いを刻み、毎年年に一度だけの沖ノ島拝謁を御赦しになっているのでございます。

四方を海に囲まれた海洋国家・日本のあるべき姿は、決して争わず、お互いを尊重し、海を路として世界の各地へと交流を拡げ、人としての幸を追い求めることにある。海原を治め、海を守り、国を造る、アマテラスの御教えを宗像三女神は、今も伝えてくださっているのでございます。

結びの段

「神宿る島・宗像・沖ノ島関連遺産群」が世界遺産登録候補として推薦され、今年七月の登録決定が待たれています。この報をどれほど喜ばれることでしょう。一人の日本人を思わないではいられません。その方の名は出光佐三。

日本人の矜持を世界に示し、和の精神を貫いた生涯でございました。なぜ、宗像への篤い思いを抱かれたかと言えば、それは出光家のルーツにあるのかもしれません。

明治十八年(一八八五年)、宗像郡赤間村(現・宗像市赤間)に佐三は生まれますが、祖先は大分県宇佐神宮の宮司だったと言われています。明治二十二年の市町村統合で宇佐郡北馬城村に合併されるまで、出光村が宇佐神宮領に在ったことからも代々宮司として神職にあったことがわかります。赤間に生まれ育った佐三は、幼い頃から宗像大社への崇敬の念を抱き続け故郷を愛されました。

しかし、昭和十二年(一九三七年)、貴族院議員となった佐三が報告に訪れた宗像大社は、道(みち)主(ぬし)貴(のむち)として日本最高神である三女神を祀る全国6226社の総本宮でありながら、社殿は傷み境内は荒れ、目を覆うばかりの惨状であったのでございます。ひどく心を痛めた佐三は、「早く元の姿にお戻ししなければ」と強い気持ちを抱かれたのでございます。早速、宗像大社再建のために「宗像大社復興期成会」を結成すると初代会長に就任するや、政府に働きかけて予算獲得等の活動を開始するのです。佐三が五十二才の時です。社業も多忙を極める時期ではありましたが、何よりも優先したのが、この再建事業であったのでございます。宗像大社が国宝であるがゆえに、予算獲得も遅々として進まないことを知ると、度重なる政府高官との交渉から、佐三は宗像神社史の編纂を助言されるのです。敗戦の影響で活動は難航しましたが、関係者の協力とたゆまざる援助で実に二十七年の歳月をかけた編纂作業が終了。『宗像神社史』上・下・附巻の三部作が完成したのでございます。

さらに、神社史編纂の過程で浮かび上がった沖ノ島での神の時代の祭祀について調査する必要を感じた佐三は、沖ノ島の学術調査を決意するのでございます。学術調査は、昭和二十九年(一九五四年)から昭和四十六年(一九七一年)までの間、第三次全一〇回にわたって実施され、驚くべき報告がなされたのでございます。

宗像三女神への深い信仰を裏付ける八万点にも及ぶ献上品が発見され、時空を超えた歴史の証を得たのでございます。国宝だけでも1万数千点と言う貴重な歴史資産を有する沖ノ島は、その後、「海の正倉院」と称されるのでございます。古代の国家祭祀の姿が甦った、この一大事業が世界遺産登録候補の一歩となったことは言うまでもありません。

昭和四十四年(一九六九年)には佐三の悲願であった宗像大社を「往年のお姿にお戻しする」ための辺津宮本殿の修復工事を着工。昭和四十六年(一九七一年)に遷宮大祭が挙行されるのでございます。本殿は宗像氏貞が天正六年(一五七八年)、拝殿は小早川隆景が天正十八年(一五八〇年)に再建して以来、実に四〇〇年ぶりとなる大造営でございました。

佐三は宗像大社を参拝する際、必ずモーニングの正装でございました。そして例外なく石段を昇り高宮斎場を訪れたのでございます。高宮斎場は、宗像三女神の降臨地と伝えられており、沖ノ島と並び我が国の祈りの原形を今に伝える全国でも数少ない古代祭場とのことでございます。緑の樹々から洩れる陽が荘厳な気を与え、そこには神々の息吹が聴こえてくるような清々しさが満ちています。佐三は、何を誓い何を願われたのでありましょう。

海洋国家日本の民として高い造船技術を駆使して竣工なった佐三の日章丸がめざした地はイラン・アバダンではありましたが、日本の誇り高い未来であったのではないでしょうか。日本人として生まれ、日本人としての道を進む、その気概を示してくれたのでございます。

第五日章丸の船鐘が宗像大社祈願殿に展示されています。再建の功労者として多大な貢献をしたにもかかわらず、佐三は揮毫することを固辞し続けました。

決して表に出ることなく、署名すらしなかったと言われています。唯一、海人の思いを伝える船鐘に高い誇りを見ることができるのでございます。

宗像三女神秘話その1

田(た)心(ごり)姫(ひめ)が鎮座する沖ノ島は島そのものがご神体。そのため、みだりに沖ノ島で見聞きしたことを口外してはならないという掟がありました。それが禁忌として伝わる『不言様(おいわずさま)』の由来なのです。祭祀遺跡が2000年にもわたり現存しているのは、『不言様(おいわずさま)』の掟によって誰にも知られることがなかったからかもしれません。女性は一切入島してはならず、男性の入島が許されるのも年に一度だけ。それも裸身となって海中で穢(けが)れを払う禊(みそぎ)をしなければ上陸できません。また島から一木一草たりとも持ち出してはならないという禁忌が厳然と守られているのです。

宗像三女神秘話その2

沖ノ島にはお宝がたくさんある。おぼろげながら伝わる噂は、時の権力者の好奇心を駆り立てます。初代福岡藩主・黒田長政はこれを入手するよう家臣に命じますが、禁忌を知っているため誰も従おうとはしません。そこで博多のキリシタンに命じて沖ノ島に向かわせ宝を手に入れます。しかし、蔵の中で宝が鳴動し城内にも不吉なことが続く祟りがおこるのです。深く畏れた長政はお宝を元通りに沖ノ島に返したのでした。この時持ち出されたのは「金の機物」。金銅製高機だとされています。

神に捧げられた奉献品は八万数千点。すべてが国宝に認定されています。

宗像三女神秘話その3

端津姫が鎮座する大島(中津宮)御嶽山の山頂に佇み九州本を眺めると宗像の海と連なる山々の壮大な景色が飛び込んでくる。古代から日本に八つしかない「神郡」の一つとして位置づけられた宗像。海岸から市(いち)杵(き)嶋(しま)姫(ひめ)が鎮座する辺津宮へ続く一帯は、大社の神域ともいうべき空間であり誰もが冒してはならない聖地だったのです。

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