菊竹六鼓 信念の言論人

五・一五事件で軍の横暴を痛烈に批判した菊竹六皷は、ペンの自由を守った信念の言論人として『ニ〇世紀の世界の報道人100人』に選ばれています。
菊竹六鼓は明治13年(1880)、福岡県浮羽郡吉井町(現うきは市)に生まれた。二歳で左足を負傷し骨髄炎を患い、生涯足をひきずって歩くことにな る。足の悪いことを理由に兵役が免除されたのは屈辱だと、筆一本で身を立て国家への奉公を誓うようになる。


東京専門学校(現早稲田大学)に進学し、英語政治科を専攻。政治家か新聞記者を目指し、弁論部で憂国慨世を説いた。
明治36年(1903)、福岡日日新聞(西日本新聞の前身)に入社。24歳には論説記者となる。当時は日露戦争の真っ最中で、論説は天下国家を論ずるものと決まっていたにもかかわらず菊竹は、父の代わりに鉄道の踏切番をしていた十一歳の少女が、列車に轢かれかかった通行人を助けようとして轢死した事件を論説の中で述べたことがある。「可憐なる一少女を有したりしことは永遠にわが福岡県民の誇りなり」とその少女の死を悼んだ。
社長の征矢野半弥に見込まれた菊竹は、31歳で編集長に抜擢される。昭和07年(1932)、犬養毅首相が海軍将校によって殺害される五・一五事件が起きた。首相を殺害した将校らに政権構想はなく、菊竹は、事件を利用して政治的に政党政治の終えんを図った軍部、荒木貞夫陸相以下を幾度にもわたって痛烈に批判した。
当時、軍部の行動を批判するマスコミは皆無に等しく、軍部や右翼から脅迫を受けたが、「私は社会の木鐸(ぼくたく)で、この筆によって国民の教えを導きたい」と死を覚悟して国への憂いを書き続けた。
昭和12年(1937)07月21日、菊竹六皷は静かに世を去る。おりしも、日中戦争が勃発し、世界中が戦乱の渦に巻き込まれていく時代の始まりであった。
木村 栄文 氏
元RKB毎日放送エグゼクティブ・プロデューサー

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする