湯地丈雄の志

湯地丈雄は一八四七(弘化四)年、熊本藩士の家に生まれ、西南戦争に出陣後、上京して警視庁に入った。四十歳の時、福岡警察署長として福岡に赴任する。湯地は「大国難である元寇の舞台となった博多に、記念碑がないのはおかしい」と常々感じていた。
そんな時、長崎で北洋艦隊事件が起こる。その視察・調査のため長崎に赴いた湯地は、国力のなさから日本側が泣き寝入りしたことに唇をかみしめた。頭に浮かんだのは国土を踏みにじられた蒙古襲来の惨禍。


「国防精神を養わなければ、いつか日本は元寇どころではない外患を受けるかもしれない」と帰福して知事に国防大治安論を提唱。国威高揚と国難に散った幾千の魂を祭るため元寇記念碑建設を決意し、募金を呼びかけるが、資金はなかなか集まらず、湯地は活動に専念するため九〇年に警察署長を辞任する。全国各地に出かけ募金講演を行った。四百回にも及ぶ講演の日々、時には野宿も強いられた。
苦労の連続であったが湯地が運動を始めてから十六年、一九〇四(明治三十七)年九月、ついに山崎朝雲作の元寇記念碑が完成した。元寇時に敵国降伏を伊勢神宮に祈願された亀山上皇の銅像(高さ二十一・五㍍)である。上皇像の台座には工事に関わった石工の名前は刻まれているが湯地の名前はない。自分と自分を支えてくれた妻子の名を刻んだ小石を台座の下にそっと埋めただけだという。まさに銅像の礎となった。
元寇記念碑完成後も護国思想の普及や献金運動に励んだ湯地は一九一三(大正二)年、清貧の中で六十七歳の一生を終えた。
牟田 敏雄 湯地丈雄顕彰会代表・事務局長

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