菅原道真公と天神美術の世界

845年~903年02月25日
901年突如太宰権師に左遷され、2月01日に都を出、59歳で没す。学問の神として全国に祭られている。
菅原道真公には「学者・詩人、教育者、政治家(右大臣)」の三つの顔がある。当時は漢詩が主流で、有名な和歌「東風(こち)吹かば~」も実は「においおこせ、春な忘れそ」と漢詩ならではの命令句が含まれる。


道真公の祖父や父の頃は唐風で、道真公の時代は和風への移行期だった。以後の歴史も唐風と和風のくり返しだ。また教育者としては私塾「菅家廊下」を主宰、貴族の身分は低いが優秀な官僚を大勢輩出した。菅原氏も身分は低く、最近の研究では道真公の政策立案が藤原氏に横取りされた事も判明しつつある。
 平安前期は南都六宗から密教への移行期で、それが食肉禁止など食文化にも影響、末法思想が広まるなど暗い時代だった。遣唐使も天皇が権威復興の目的で派遣していたが、道真公の提言で八九四年に廃止された。
 道真公は多くの妬みにあい大宰府に左遷、当時の流刑は家来も同行できず原則自給だった。唯一、従臣・味酒安行が一切を捨ててお供した。辿りついた博多港は今の大濠公園で、上陸の際の伝説が容(すがた)見天神(水鏡天満宮)などに残る。流刑の道真公には食糧の差し入れ等も禁止されたが、ある老婆が梅の枝に粟餅をつけて窓から届けたのが「梅が枝餅」の起源と言われる。公の死後、味酒は遺体を守り牛車に載せ丑寅の方角に逃げ、牛が立ち止まった寺の境内に遺体を埋めて隠した。その後、許可を得て建立したのが天満宮だ。
 現在、全国に約一万二千の天神様がある。戦国時代までは武神・八幡宮を祀ったが、以後の為政者は天神様を祀って人心の安定を図った。道真公は死後、火雷天神になったと言われるが、雷神は京都では悪神だが京都以外では雨を降らせる益神、いわゆる農耕神、だから牛に縁がある。学問の神としたのは江戸の亨保以降だ。
 その太宰府天満宮も歴史の波に翻弄されてきた。道真公一人を祀るため檀家もない。現在の公称になったのは昭和二十二年、その前は太宰府神社(明治四年)、その前は天満宮安楽寺、それ以前は太宰府廟だ。道真公がこの地に祀られなかったら、天満宮もなく、さらに九州国立博物館も実現しなかっただろう。
太宰府天満宮文化研究所 主管学芸員
味酒 安則

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする