富永シヅ 日本で初めて冷凍車を作り、走らせた人

日本のコールドチェーンのパイオニア

 今、私たちは、山国に住んでいても、すぐに新鮮な海の魚が食べられます。また、都会の中でも、遠いところから昨日とれた野菜や絞りたての牛乳が、即時に口元に届きます。いつもは気にも止めていないことですが、なぜでしょうか。それは、生産地の取れたてのものが、すぐに定温冷凍車で日本の隅々まで運ばれ、消費者のもとに届くシステムが出来上がっているからです。
 この仕組みを日本で初めて考え出し国産第1号の冷凍車を作り、今日のコールドチェーン(冷凍輸送)の礎を築いた人、それが、富永シヅです。そして国産初の冷凍車はここ福岡で誕生したのです。


 富永シヅは、福岡運輸株式会社の創業者で、明治四十二(一九〇九)年一月二十八日に五島列島・福江島の玉之浦湾沿いの荒川部落、鳥巣家で生まれました。祖父の鳥巣五右衛門は、大敷網の網元で、長崎の県議会議員でした。
 シヅは九人兄弟の長女として生まれ、お父さん(鳥巣房太)とお母さんは、二人とも五島・福江島の富江小学校の教師、お父さんは校長先生でした。シヅは小学校に上がる前は玉之浦湾の荒川部落のおばあさんのところで大事に育てられました。
 シヅが育った頃の玉之浦湾では、魚がいっぱいとれ、すぐそばの東シナ海は、魚の宝庫、そのため九州や四国から漁師が魚を求めてたくさん集まり、前線基地として、大正時代から昭和二十年代までは大いに賑わったものでした。当時の漁法は、舟が手漕ぎから、動力船に切り替わる時で延縄漁や底曳き網漁が主流を占めていたのです。
 シヅは小学校にあがる年、おばあさんのところを離れ、父母の元に行き富江小学校に入学しました。小さい時から頭の秀でた子どもでした。その後、弟や妹が次々と生まれたので、お父さんとお母さんは、相談をして、子ども達にいっぱい教育をさせようと、お母さんが先生を辞め、校長先生のお父さんを富江に残して、子ども達を連れ、長崎に引っ越しました。
 シヅは、十五歳の時、教師の道を歩もうと、長崎女子師範学校(現長崎大学教育学部)に進み、卒業すると十八歳でそのまま、母校の附属小学校の先生になったのです。そこで足かけ八年、学校の先生をしましたが、昭和八(一九三三)年に、田舎のインおばあさんのすすめで、玉之浦に帰り、結婚しました。
 夫の富永恒太郎は、徳島県出身、九州出漁団の底曳き網漁業の草分けともいえる網元で玉之浦の若いリーダー的存在でした。シヅにとっては、何せ学校の先生から、漁業・網元に嫁ぎ、それもたくさんの漁師達の世話や、金庫番や経理も任されたので、初めてのことばかり、夜眠る暇もない程の忙しさでした。その上、翌年、夫、恒太郎達の発案で徳島県九州出漁団は昭和九(一九三四)年、玉之浦から福岡に出漁団ごと、引っ越すことになりました。当然地元の人たちは、残ってくれと猛反対します。でもいろいろ将来のことを考えるとやむを得ないことでした。これを契機に玉之浦は、段々と、さびれていき、やがて元の静かな村に帰っていったのです。
 結婚して八年目、太平洋戦争が始まって、まもなくの翌年、昭和十七(一九四二)年三月、夫、恒太郎を病で失い、シヅは、女手一つで、子ども達を抱え、家業を切り盛りせざるを得なくなりました。残っていた漁船も、戦争が激しくなるにつれて、すべて国に徴用されました。船がなくなり、魚をとることもできなくなったのです。
 やがて昭和二十(一九四五)年八月、戦争が終わり、シヅは、上海から一隻だけ帰ってきた船での魚とりから事業をスタート、天洋水産株式会社を興し、当時ひもじい思いをしていた国民のために水産食料を確保しようと底曳き網漁業を再開しました。船も徐々に増えていきました。
 当時は、とれた魚はいくらでも売れ、天洋水産株式会社の経営は順調になりましたが、漁業は、天候にも左右され、常に海難事故や不漁の時もあり、不安定な要素がともないます。そこで、シヅは、考えました。もっと安心して仕事のできる陸の事業を目指そうと。
 そこでまず、昭和二十三(一九四八)年十月、漁業以外に福岡倉庫株式会社を立ち上げ、更に昭和三十一(一九五六)年、福岡運輸株式会社を設立しました。
 その頃、日本は戦争に負けたので、アメリカの進駐軍が、日本を統治するために絶大な権力を持っていました。会社を作った翌年のある夏のこと、米軍調達本部の要請で、冷凍車開発に乗り出す企業を探すため、説明会の通知が舞い込みました。この頃は、家庭には、テレビはもちろん、電気冷蔵庫もない時代で、シヅにとって冷凍車の知識など、ちんぷんかんぷんでした。
 また当時の福岡運輸は、設立してまもなくのことでしたので、そんな冷凍車を作る資金の余裕などあるはずもありません。一応、丁重にお断りするつもりで、現在の福岡地下鉄の祇園駅あたりにあった米軍の事務所に出かけました。しかしこれがわが国で初の冷凍車幕あけの端緒となる運命の日になったのです。
 米軍の説明は、九州・中国地区に散らばる駐留米軍板付基地周辺部隊へ、食料定温輸送サービスをして欲しいというものでした。説明の後、別の部屋に案内されました。そこには、なんと背丈の二倍ほどはある大きな冷蔵庫がゴ~ン、ゴ~ンとうなり声を上げているのです。説明役の少佐は、これを指さしました。
「要するに、これをトラックに積んで走るのだと考えればいいのです。この中に生鮮食料品を詰め込んでね」
 富永シヅは、その場で、ぱっと稲光のように勘がひらめきました。「これからかならずこの冷凍車の時代が来る」そう確信したのです。
 断りに言ったはずの社長が、大手業者も尻込みした話をその場で即決して受けてきたものですから、帰りを待っていた社員達は、「え? でもそんなお金は何処にあるの」といった顔でびっくり仰天しました。でも富永シヅには強い経営の信念がありました。
「企業の仕事は社会に貢献できるものであるべきで、お金ができて仕事をするというのは逆。社会に役立つ仕事をすれば、必ずお金はついてくる」社員にも挨拶代わりに「あなたお役に立っとうね」といつも声をかけていました。
 それからというもの、社長も社員も一緒になって、寝るのも惜しんでの試行錯誤の冷凍車作りが始まったのです。幸い、制作の技術面では、日本に現存する一番古い国産乗用車(アロー号)をつくった矢野特殊自動車という頼もしいパートナーの協力が得られ、足掛け二年をかけて苦心惨憺の末、ようやく第一号車が完成しました。わが国初の畜冷式冷凍車です。稼働したのは昭和三十三(一九五八)年九月のことでした。それからも改良に改良を重ねる大変な努力が行われました。
 まさに、今の日本のコールドチェーンにつながる冷凍輸送の幕開けでした。
 日本の国産冷凍車を走らせた福岡運輸株式会社は、今年創業五十周年を迎え、そして日本のコールドチェーンの扉を開いた富永シヅ代表は今年一月二十八日、九十七歳の誕生日を迎えました。ところで、彼女にとって、いつも大切にしている座右の銘をご紹介しましょう。 「ただ、露ばかりも違わじとする人の尊さよ」という格言です。
 昔、お釈迦様が、自分の名前も書けない愚鈍なお弟子さんに「このお寺を清めなさい」と言いますと、彼は、ただひたすら、お寺を一生けん命掃き清めぬきました。それで立派にお役に立ち、功徳されたという故事からきているのだそうです。
 ただひたすら真実一路に生き抜こうとしている人間の姿ほど、心を打つものはないということでしょうね。
 
 最後に、皆さんが、おうちや学校での食事で、新鮮な野菜や、おいしい魚に接するときこの国産冷凍車第一号車を作った富永シヅさんのことを時々思い出していただけたら幸いです。
著者:田 蛙声(でんあせい)
1940年宮崎県日南市生まれ。中央大学法学部法律学科卒。スカイビュープランニング 編集長。錦心流薩摩琵琶奏者(芸名、古澤錦城)として、琵琶楽人倶楽部(代表)を主宰。著書「バトルの学舎」(ごま書房)・小説「流砂に響く」・エッセイ・琵琶歌創作多数。ボランティア活動で、平家物語の琵琶弾き語り演奏を兼ね、中学校特別授業(語り音楽と日本の文化)を行なっている。

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コメント

  1. オリオンしもつかさ より:

    テレビのニュースで知りました。今では当たり前の冷凍車、大変な熱意と苦労の結晶ですね。あらためて感激いたしました。今回、本のプレゼントがあると聞き、インターネツトで福岡運輸の歴史を読ませていただきました。パイオニアという言葉がふさわしい方なのですね。

  2. 福永哲也 より:

    父80歳,母75歳の誕生で帰福した折、ソラリアで創業50周年イベントのビデオを拝見しまし感激のあまり涙が止まりませんでした、このように立派な方・会社が福岡にあることが誇らしく思えました。

  3. 富原智一 (旧姓野満)美智 より:

    私の家内は昭和30年代、天洋水産の社員でシズ社長に可愛がっていただきました。
    先見性のある素晴らしい社長さんだつたようです。

  4. 三宅島 紫陽花 より:

    こんなところで、富原さんにお会い出来るとは・・・・
    私は、鳥巣社長のお子(元太&哲子)さんと
    小・中・高校が一緒でした。

  5. 青柳光弘 より:

    エピソード中の天洋水産株域会社!底引き網漁船第五&第八天洋丸とは数年間のお付き合いで入港のたびの訪船、エンジントラブルでは運搬船で東シナ海まで行ったこと、新船建造時には直接シズ社長に呼ばれわが社のエンジンに決定していただいたこと。小生の現役時代で最も忘れられない会社です。