川上音二郎 新劇の祖

新劇の祖と呼ばれる川上音二郎は、文久年・元治元年(1864年)1月01日に博多対馬小路藍問屋の長男として生まれる。
14歳の時父が後妻を迎えたので大阪に出奔。のち上京し放浪の生活を続け、自由童子と名乗り、過激な言論で政府や警察を攻撃して、たびたび処罰され、入獄を繰り返す。その後大阪の落語家桂文之助の門に入り、浮世亭〇〇と名乗って、オッぺケぺ―節を売り物に人気を得た。


1891年(明治24年)2月角藤定憲の壮士芝居に刺激され、堺の卯の伯座で川上書生芝居の旗揚げをする。同年6月に上京、「板垣君遭難実記」などを上演、市民の好奇心をそそり、興行は成功した。1893年(明治26年)、演劇視察のためフランスに行き、技術面で多くのことを学び、帰国翌年から『意外』『又意外』『又又意外』を好評のうちに連続上演。日清戦争が始まると戦争劇を連続上演、これまた人気を集める。『威海衛陥落』では念願お歌舞伎座の舞台を踏む。ニューヨーク、パリ万国博など、海外公演を積極的に行なう。フランス政府からアカデミー勲章を授与される。
1903年(明治36年)アメリカから帰国した川上一座は正劇と銘打って『オセロ』『ヴェニスの商人』などを上演。これらの翻訳劇は、日本の近代劇運動の先駆けとなった。新派劇の事実上の生みの親であり、日本で女優第一号の妻・貞奴の美貌と内助の功も多くの話題を残した。
総額12円(今の12億円)で大阪に帝国座という自分の劇場を立てた二人。夢の桧舞台、劇団員全員で合唱するのは、あのオッペケペー節。
明治44年11月11日、舞台の合唱に見守られ、担架に横たわる音二郎は息を引き取る。
 (神田紅)

「伝えたい福岡スピリッツ!川上音二郎の志」

神田 紅
芸者・貞奴は、伊藤博文が最初のパトロンで、馬術に水泳、玉突きに柔道をたしなむ名妓。売れっ子芸者貞奴とオッペケペー節で一世を風靡する音二郎との東京での出会いからはじまった紅講談。
今からさかのぼること約100年前。福岡から、東京、アメリカ、ヨーロッパ・パリ万博と活躍した二人。日本初の女優貞と新派劇の基礎を作った音二郎の生き様を、妻の貞奴を主役に、粋な江戸弁と講談のリズムに乗せて、集まった新遊民たちを魅了しました。
博多者らしい豪放らい落、憎めない性格と近代演劇で成功をおさめた音二郎。アメリカ巡業で大成功を収め、花の都パリでオッペケペーを唄う川上音二郎一座。看板女優「マダム貞奴」の名も国際的となり、二人で夢を築いていくのです。
総額12円(今の12億円)で大阪に帝国座という自分の劇場を立てた二人。夢の桧舞台、劇団員全員で合唱するのは、あのオッペケペー節。

オッペケペ オッペケペ
オッペケペッポー ペッポッポー
権利 幸福 嫌ひな人に
自由湯をば 飲ませたい
オッペケペ オッペケペ
オッペケペッポー ペッポッポー
お堅い裃(かみしも) 角取れて
マンテルズボンに 人力車
いきな束髪 ボンネット
淑女に紳士の いでたちで
うわべの飾りは 良けれども
政治の思想が 欠乏だ
天地の真理が わからない
心に自由の 種を蒔け
オッペケペ オッペケペ
オッペケペッポー ペッポッポー

明治44年11月11日、舞台の合唱に見守られ、担架に横たわる音二郎は息を引き取るのです。
自作の現代オッペケペー節も披露した紅師匠。満場の拍手の中、新遊民記念講談は名調子で私たちの心を打ったのでした。

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コメント

  1. 華石 より:

    音二郎の墓は博多区”承天寺”にあります
    銅像は明治どうり川端バス停前(福銀)
    川上神社(博多区対馬小路生誕地)

  2. hidebo より:

    川上音二郎は今で言うなら コメディアン
    「波多陽区」や「桜坂」のやることと同じ
    世相風刺 庶民のぼやき・・を
    メロディに合わせて語っていた
     政治などへの叶わぬ不満を
     庶民の代弁として唄に乗せて語っていた
     それを聞いて せめての鬱憤ばらし
     いつの世も同じですね

  3. より:

    戦時中の銅像回収のために台座と、偶然残されていた銘板しかないんですが、東京の谷中霊園に音二郎の銅像があった台座があります。