緒方竹虎 重厚精廉の政治家

自由党総裁、国務大臣、内閣情報局総裁、内閣官房長官、副総理などを歴任した緒方竹虎(おがたたけとら)。重厚清廉の政治家として知られ、彼の急死がなければ戦後政治史も大きく変わったといわれる。その緒方の人物像と政治に迫った。


緒方竹虎は幕末に洪庵と共に適塾を開いた緒方研堂の孫として1888年01月30日、山形県に生まれる。修猷館中学(現高校)から東京高等商業学校(現一橋大学)に入学するが、早稲田大学に転学。1911年卒業後、大阪朝日新聞社に入社。1925年に東京朝日新聞社編集局長、のち主筆副社長に進む。
剛直な性格でも知られる。二・二六事件(同十一年)では、当時、東京有楽町にあった東京朝日新聞社を襲撃した陸軍の反乱部隊に緒方が悠々と応対、反乱軍を引き上げさせた。太平洋戦争中、学生時代からの友人だった中野正剛が東条英機首相に弾圧されて自殺した。その葬儀では東条からの供花を拒否している。
1944年07月小磯国昭内閣に国務大臣・情報局総裁として入閣。鈴木貫太郎内閣の顧問、東久邇宮稔彦王内閣で国務大臣・内閣書記官長を勤めるが、1946年07月、公職追放となった。1951年10月追放解除。翌年10月の衆議院議員総選挙で福岡一区(当時)から出馬し当選する。
第四次吉田茂内閣で国務大臣・内閣官房長官に任命され、1953年05月成立の第五次吉田内閣で副総理に就任。1954年12月08日自由党総裁に緒方が選出された。保守合同に心血を注ぎ、1955年11月15日自由民主党が結党され、鳩山一郎・三木武吉・大野伴睦と共に総裁代行委員に就任。鳩山首相の後継者と見られた。
それに先立つ1955年05月30日、緒方は母校の修猷館創立七十周年記念式典で占領軍に強制された憲法の改正の必要性を語り、その実現を若い後輩達に託した。
1956年年01月28日、緒方は全国遊説中に風邪を引き、急性心臓衰弱で急逝。享年六十八歳だった。
幾岡一致館に剣を学び、小野派一刀流の大目録を受け、母校修猷館剣道部に「心外無刀」の額を贈った。今でも高校生部員は、額を見ながら練習に励んでいる。
元豊前市立図書館長 作家 渡邊行男氏

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コメント

  1. 佐藤すみ江 より:

    父の伯父にあたる人、港区立三田図書館にて仕事をしながら注意して著書を読んでいます。私も陰ながら頑張りたいです。