杉山茂丸 全身献体の快人

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1864年08月15日~1935年07月19日
昭和10年(1935)のその年は、お正月に息子・夢野久作の「ドグラ・マグラ」の出版パーティーから始まり、5月には頭山・杉山交友五十年の祝いが盛大に行われましたが、その2ヶ月後の07月19日、茂丸は脳出血で死去。72才の生涯は、その数日前まで松岡に満鉄総裁への就任を熱心に説得していたと申します。


茂丸は「死体国有論」を主張し、「我が国の学問に何か役立つならワシが死んだら死体を解剖し、切り刻んで充分研究してくれ」と遺言を残しました。
その遺体は、本人の主張どおり東大で解剖され、その遺骨は今でも東大医学部の標本室に(2年後に亡くなった)奥さんの幾茂さん共々並べられているそうでございます。その脳は1555g、日本一といわれた桂太郎より45gしか少なくなく、骸骨は常人より大きく逞しく、胸部も幅広く実に堂々たる骨組であったそうです。
杉山茂丸の葬儀は、芝の増上寺で玄洋社が中心となって、おおやけの公人として執り行なわれました。葬儀委員長は我が国近代史に隠然たる影響力を振るい続けた頭山満、副委員長は外務大臣で後の首相、茂丸が生涯で唯一人育てたと言われる広田弘毅、日葬の人々は引ききらず、その付き合いの広さを象徴。政治家要人は元より、陸海軍の大将連、産業界の巨頭、欧米人、中国人、インド人、国士、志士、剣道柔道家、本因坊から三役力士、托鉢僧の一群に続き、新橋柳橋の女将や老妓などなど、長蛇の列が続きました。
その遺髪が郷里の福岡へ運ばれる時、東京駅でそれを見送る頭山は、人目をはばからず涙をポタポタ流し続けていたと申します。
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 杉山茂丸は、民間政治家(いわゆる浪人)だが、金融と経済こそ近代国家の基本と言う観点から、伊藤博文、山形有朋、桂太郎などを動かして、近代国家としての日本の方向付けを行なった。
 元治元年(1864年)8月15日、福岡市天神町に誕生。郷土開発を志し、安場保和を福岡県令に担ぎ出し、道路の拡充、九州鉄道の敷設、海軍予備炭田の開放など、大胆な施策を次々に実行に移す。
 明治21年香港を視察、欧米先進国の植民地化から逃れる為に、工業立国を思い立ち八幡製鐵所、日本興業銀行、博多港などの開設に取り組み、関門トンネルをも構想した。政治的にも日清戦争、日露戦争から日韓併合、鉄道の国有化、満鉄など近代化にいずれも重要な役割を果たしている。
 昭和10年7月19日、71歳で死去。葬儀委員長は玄洋社の頭山満、副委員長は前首相広田弘毅。遺体は奥さんと共ども東大医学部に標本として並べられている。其日庵と号し、著書は『百魔』『俗戦国策』『山縣元帥』など。作家の夢野久作は長男でインドを飢饉から救いグリンファーザーと尊称されている砂漠緑化運動推進者・杉山龍丸は孫。

「杉山茂丸小伝」

元治元年(1864年)08月15日、福岡市の中心、因幡町に誕生。民間政治家(いわゆる浪人)だが、金融と経済こそ近代国家の基本と言う観点から、伊藤博文、山形有朋、桂太郎などを動かして、近代国家としての日本の方向付けを行なった。
5歳の時、藩主黒田長溥の槍持ち小姓となり、珍山尼という女医さんから勤皇精神を学び、ルソーの民約論に感化を受ける。明治11年、藩閥政府打倒の壮士として伊藤博文の暗殺をはかって面談中、利権漁りに狂奔しているわけではないことを知って翻意。郷土開発を志し、安場保和を福岡県令に担ぎ出した。安場は道路の拡充、九州鉄道の敷設、海軍予備炭田の開放など、大胆な施策を次々に実行に移し、杉山はその石炭の売りさばき先を求めて、明治21年、香港に渡った。ここでヨーロッパのマーチャンダイジング・バンクの実力を見せつけられ、これらの銀行に対等に伍していくことこそ、日本の植民地化を防ぐ、近代国家の基本との信念を持った。その為に工業立国を思い立ち八幡製鐵所、日本興業銀行、博多港などの開設に取り組んだ。関門トンネルを最初に構想したのも杉山である。政治的にも日清戦争、日露戦争から日韓併合、鉄道の国有化、満鉄など近代化にいずれも重要な役割を果たしている。
昭和10年7月19日、71歳脳出血で死去。葬儀委員長は玄洋社の頭山満、副委員長は前首相広田弘毅。遺体は奥さんと共共東大医学部に標本として並べられている。其日庵と号し、義大夫と刀剣を道楽とし、著書は『百魔』『俗戦国策』『山縣元帥』『桂大将伝』など。作家の夢野久作は長男。インドを飢饉から救いグリンファーザーと尊称されている砂漠緑化運動推進者・杉山龍丸は孫。 (神田紅)

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