アルバート・アインシュタイン 福岡で講演

1879年03月14日~1955年04月18日
アインシュタインは出版社「改造社」の招きにより、1922年11月17日から12月29日までの43日間、日本に滞在、全国10カ所で講演を行った。福岡での講演が最後で、前日の12月23日には門司三井倶楽部に宿泊した。


翌24日、10時50分の急行で博多へ。福岡市の大博劇場での講演には九州各地から約3000人が駆けつけ、この世紀の講演に聴きいったという。
この時の通訳は石原純教授。その夜は栄旅館に滞在したが、門司港までパンを買いに行ったり、布団を8枚重ねてベッドにしたりと対応にてんてこ舞いだった。ところが門司港三井倶楽部では、西洋式のベッドも風呂もあり、門司港はモダンだったとか。そのときのベッドや浴槽が門司港レトロ地区の門司港三井倶楽部で公開されている。
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1879年03月14日午前11時30分、ドイツの小都市ウルムにて、ヘルマンとパウリーネの長男として生まれた。5歳まで言葉をしゃべらなかったといわれるなど、いかにも天才らしい数々のエピソードの持ち主。たとえば4,5歳ごろ父親からもらったコンパスに深く魅了され、日々それを眺めることで、自然界の不思議について考えた。コンパスが必ず北を指すということから、物事の背後には深く隠された何かが、存在すると考えたという。11歳の時にピタゴラスの定理の存在を知り、その定理の美しい証明を使用と考え、自力で定理を証明した。12歳ごろ、ユークリッド幾何学の本をもらい、独学で微分、積分を学ぶなど、伝えられている。
また、アインシュタインは、音楽好きの両親のおかげで幼いときからヴァイオリンを学び、長じてからは折りあるごとに演奏をした。日本滞在中もヴァイオリンの演奏をしたという記録が残っている。
1900年にチューリッヒ連邦工科大学を卒業。様々な仕事を経験したのち、友人の父親の口利きで1902年にスイスの特許局に3級技術専門職として就職した。
「特殊相対性理論」「光量子仮説」「ブラウン運動論」の三つの論文を発表。私たちの世界観を一変させてしまったのだ。その理論は、時間と空間についてのまったく新しい考え方で、宇宙の仕組みをはじめ、その発生や消滅などの大問題を解くきっかけとなる画期的なものであった。今年はこの歴史的事件から一〇〇年目である。
また、当時の福岡日日新聞を通して、「私に深い印象を与えているものは、この地球という星の上に今もなお、こんなに優美な芸術的伝統を持ち、あのような簡素さと心の美しさとを備えている一つの国が存在しているという自覚であります」というメッセージを残したことが伝えられている。
1921年、光電効果等の発見により、ノーベル物理学賞を受賞した。
1932年、ユダヤ人だったために、ドイツナチスから逃れるためにアメリカに亡命している。

なぜ、今、アインシュタインか? 

ふくおか未来立志塾 塾頭代行 田邊 皓俊 氏
アインシュタインの相対性理論の発表から一〇〇年目の今年。アインシュタインの科学思想の今日的意義、それが今なお日本の文化にとって、持つ意味の問い直しが注目されています。
 ~大事なことを易しく深く面白く~がモットーの立志塾・田邊皓俊塾頭代行が、二〇世紀最大の物理学者・アインシュタインを語りました。
 一九〇五年、ドイツ生まれの理論物理学者・アルバート・アインシュタイン(一八七九~一九五五年)が「特殊相対性理論」「光量子仮説」「ブラウン運動論」の三つの論文を発表。私たちの世界観を一変させてしまった。その理論は、時間と空間についてのまったく新しい考え方で、宇宙の仕組みをはじめ、その発生や消滅などの大問題を解くきっかけとなる画期的なものであった。今年はこの歴史的事件から一〇〇年目である。
 一九二〇年ノーベル物理学賞を受賞。翌年世界遊歴の途次、改造社(出版社)の招きで来日したアインシュタイン。四十三日間の滞在中、全国八カ所で講演を行った。最後の福岡では、当時の福岡大博劇場で相対性原理講演会に臨んだ。聴衆三千人余、全九州及び山口、広島からも集まった。
 また、福岡日日新聞を通して、「私に深い印象を与えているものは、この地球という星の上に今もなお、こんなに優美な芸術的伝統を持ち、あのような簡素さと心の美しさとを備えている一つの国が存在しているという自覚であります」というメッセージを残した。
 なぜ、今、アインシュタインか?―大正デモクラシー期のあの熱狂、戦後の昭和現代史への隠然たる刻印を捺していく長期にわたる影響、それらを見る時、それはまさにアインシュタイン・ショックとしか表現し得ない。二〇〇五年が国際物理年ということもあり、アインシュタインの科学思想の今日的意義、パラダイムの変革者、ユダヤ人としての自覚、貴重な人間性など、そして日本人へのメッセージ、警告を多角的に汲み取っていかねばなるまい。核兵器の恐怖も消えない今、戦後六〇年の今だからこそ。
 ハルの教育理念は、学力の優劣より、「人として」が基本。だからといって勉学の指導に手を抜くわけではなく、他の教師に比べひときわ厳しかったという。校門の前に立って、生徒が服装の乱れた格好で門をくぐろうとすると、「帰りなさい」と厳しくしかり、生徒のしつけができていない教師の指導までした。
 七一(同四十六)年、教育一筋に尽くし、八十七年の生涯に幕を閉じる。教育の道七十年、料理研究五十年。よく口にしていた「努力の上に花が咲く」は、現在も学園において脈々と語り継がれている。

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