田中諭吉 福博文化催事

1910年1月29日~1970年09月05日
戦後の暗い世相の中を、頓智とアイデアとものすごい郷土愛で、福博の街々に明るく楽しい数多くの行事を創作した人がいる。


1910年1月29日、博多の川端で生まれた。丁度1910年1月25日に逝去された明治の偉人に福沢諭吉氏がいた。この名にあやかれと、父親がそのまま田中諭吉と命名する。
大変優秀な少年期、青年期を過ごし、福岡日々新聞社(今の西日本新聞社の前身)に入社した。仕事は社会部に属した絵画部で、事件や火災現場をスケッチしては新聞原稿として活躍していた時代である。数多くのエピソードを持ちながら西日本新聞社、広告代理店西広、大広と勤務しながら生涯を地域のふるさと起しに従事するかたわら、博多仁和加の名人芸もあり、笑い多い文化活動も数多い人だった。
特に、郷土の歴史的背景を個々の社寺仏閣の再興に生かし、数多くの宗教行事を組み立てた人でもある。今に生きている福博周辺の一部の祭事を書き綴ると、
– 櫻井神社の神明造りの海辺に建立した鳥居…朝日の伊勢の夫婦岩に対して、夕日の筑紫伊都・志摩(島)の夫婦岩に捧げる事業。
– 荒戸まつりと光雲神社の落慶行事…西公園の開発行事と共に、大きく広げた福岡祭礼行事を起す。
– 大宰府天満宮の曲水の宴の再現を試みる…大宰府の観梅行事と合間って、天満宮・四度の宴の一つ、曲水の宴を発想し現在に至る。
櫛田神社のおたふく面(楼門一杯に大きい)を節分祭時に取り付けたり、博多祇園山笠の永代(一年中)奉納、飾り山笠や集団山笠の発想など、今でも観光風物史として生きている。その外枚挙にいとまがない程、福博文化催事を組み立てた功労者である。人が喜ぶ事を己の最大の喜びとしながら、1970年09月05日行年六十九歳で逝去された。
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田中諭吉

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