黒田騒動

逆臣の汚名覚悟で藩主を訴え藩を救った栗山大膳

五年前、立志塾の開塾にあたり戊辰の役の戦場・秋田、岩手を訪問。盛岡市で、偶然にも南部藩盛岡に預けられた栗山大膳の墓と顕彰碑に巡り会えた。
 「我が藩主に謀反の疑いあり」との訴えは、史上最大の内部告発といえる。大膳が藩を救うために、やむにやまれず主君を訴えた心情を一九五六年制作の東映映画「黒田騒動」に学んだ。


 一六三二(寛永九)年、福岡藩を揺るがす大事件が起きた。 後に伊達騒動、加賀騒動とともに三大お家騒動に数えられる出来事である。
 時は二代藩主忠之のころ。それまで不行跡が多かった忠之だったが、下級藩士の出の稚児小姓を寵愛し、一万石の家老に取り立てたことから譜代の重臣たちと対立した。このころ、隣藩・加藤氏が廃絶されるなど、徳川幕府の外様大名への締め付けは厳しく、危機感を抱いた筆頭家老の栗山大膳は藩主へ諫言(かんげん)をするが、受け入れられず、忠之の怒りを買い、切腹を言い渡される。
 そこで大膳は幕府に「藩主謀反の企てあり」と、二十五カ条の訴状をもって訴えた。内容は二百人の足軽隊の新設、駿河大納言忠長に通じたなどであった。
 現在と違って、情報の伝達手段が限られていた時代である。藩内でもみ消されることなく、訴状が徳川家の目付役 竹中妥女正の手元に届き、江戸での審問につながったのは、知恵者の大膳が訴状を二通作り、一通をあえて忠之の手に入るようにしたからである。訴状に「この書面が間違いなくお手元に届くように同時に二通作って、二人に持たせて送る」という内容を書き添えることで、すでに幕府の手に訴状が伝わっているという圧力を忠之主従に与えた。忠之にとって、もう一通が幕府に届いている可能性がある以上、大膳を葬ることが、謀反の証拠となりかねない。
家康の没後十数年、徳川幕府は外様大名の取り潰しと切支丹弾圧に必死だった。江戸での審問の結果、忠之には叛意はなかったが、不行跡により、一度領地を召し上げられ改めて領地を与えられる。一方、大膳は主君を訴えた罪で、家族ともども盛岡藩にお預けとなるが、百五十人扶持を許されたという。
 外様大名の雄、筑前の黒田藩五十二万石の安泰を図るために、逆臣の汚名を覚悟しながらも藩断絶を回避した栗山大膳その志は、武士道精神に貫かれたものであったであろうと考える。

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