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運営:福岡スピリッツプロジェクト(iSEN、金印倶楽部)

おめでとうございます。

私たちの福岡は、後漢の光武帝が金印「漢委奴国王」を下賜したといわれる西暦57年の昔から、日本と海外との交流の窓口としての役割を果たして来ました。その福岡には多くの先人たちが新しい出会いを求め、新しい時代を創ってきた脈々とした歴史があります。

前人未踏の少子高齢化時代に突入した今こそ、この地に縁のある先人たちの高い志を学び、その電流を少しでも次世代に伝えていくことが出来ればと願っております。今年は私たちの活動を支える「二〇〇七年の会」の節目の年です。神田紅師匠を先頭に多くの先人の高い志を紹介し、

“人生の質を高める知恵や勇気や遊び心”を学び、育み、伝えて 行ければと汗を流す覚悟です。

新しい出会いに命をかけた唐僧鑑真と遣唐使達

日本と海外との交流のスタートは57年の後漢の光武帝から下賜された金印に始まる。700年後、遣唐副使大伴古麻呂らが唐僧鑑真を伴って、753(天平勝宝5年)12月26日に大宰府に到着、754(天平勝宝6)年1月01日に平城京に帰る。

戒壇院 鑑真

688年~763年06月25日
持統天皇2年 - 天平宝字7年5月06日
中国揚子江陽県生まれ 奈良時代の帰化僧5回の失敗を乗り越え、753年12月26日に太宰府に到着。帰化後初の授戒を戒壇院で行なう。唐招提寺建立。

菅原道真 天神さま

845年~903年02月25日

901年突如太宰権師に左遷され、02月01日に都を出、59歳で没す。学問の神として全国に祭られている。630(舒明2)年08月05日に第一回遣唐使犬上御田鋤が派遣され、264年後の894年には遣唐大使に任命されるが、日本独自の文化を育てる 為・唐が衰退し
てきたことを理由に遣唐使の廃止を訴え、採用される。264年間に遣唐使は19回任命されたが、実際に渡海したのは15回である。

小野篁 平安時代前期の公家、詩人、最後の遣唐使

802年~852年
延暦21~仁寿2年

832(天長9)年太宰少弐になったが、淳和天皇は才を惜しんで赴任を許さなかった。834(承和元)年に遣唐副使に任ぜられ836(承和3)年大宰府に織、7月02日博多津を出帆したが失敗。翌年も失敗し、2年後3回目の時に大使藤原常嗣との諍いで乗船を拒否し、『西道謡』を作って遣唐事業を風刺。ために嵯峨上皇の怒りに触れ、隠岐に配流。2年後に許される。『経国集』などに若干の詩、『古今和歌集』に6首がある。

最澄 伝教大師

767年~822年06年04
神護景雲元~弘仁13

803年3月遣唐使一行と共に難波を出発するが船が難破、一年三ヶ月太宰府の竈門山寺(かまどさん)に寄住していたが、渡海の無事を祈り薬師象4体を作り、宇佐宮、香春神社も参詣す。804年入唐に成功、805年唐より帰国し、806年に天台宗を開く。著書「山家学生式(さんげがくしょうしき)」に有名な言葉「一隅を照らすものは国宝なり」を残している。(「照干一隅」または「一燈照隅」)

明治時代 文化交流を通し日本近代化を牽引した新劇の祖川上音二郎と貞奴

新劇の祖 川上音二郎

1864年01月01日~1911年11月11日

福岡市博多区生まれ / オペッケペ節で人気を得、欧米で興行し、近代劇運動の先駆けとなる。
新劇の祖と呼ばれる川上音二郎は、文久年・元治元年(1864年)1月01日に博多対馬小路藍問屋の長男として生まれる。

近代女優第1号 川上貞奴

1871年07月18日~1946年12月07日
(明治4年~昭和21年)東京都日本橋生まれ

日本一の芸妓から川上音二郎の妻になり、明治昭和の女優として活躍。1912(大正元)年10月16日から7日間、博多の明治座で夫音二郎の追善興行を開催する。1904年1月02日に報知新聞が俳優・川上貞奴の写真を掲載。日本初の新聞写真

「伝えたい福岡スピリッツ!川上音二郎の志」神田 紅

芸者・貞奴は、伊藤博文が最初のパトロンで、馬術に水泳、玉突きに柔道をたしなむ名妓。売れっ子芸者貞奴とオッペケペー節で一世を風靡する音二郎との東京での出会いからはじまった紅講談。

今からさかのぼること約100年前。福岡から、東京、アメリカ、ヨーロッパ・パリ万博と活躍した二人。日本初の女優貞と新派劇の基礎を作った音二郎の生き様を、妻の貞奴を主役に、粋な江戸弁と講談のリズムに乗せて、集まった新遊民たちを魅了しました。

博多者らしい豪放らい落、憎めない性格と近代演劇で成功をおさめた音二郎。アメリカ巡業で大成功を収め、花の都パリでオッペケペーを唄う川上音二郎一座。看板女優「マダム貞奴」の名も国際的となり、二人で夢を築いていくのです。

総額12円(今の12億円)で大阪に帝国座という自分の劇場を立てた二人。夢の桧舞台、劇団員全員で合唱するのは、あのオッペケペー節。

オッペケペ オッペケペ
オッペケペッポー ペッポッポー

権利 幸福 嫌ひな人に
自由湯をば 飲ませたい
オッペケペ オッペケペ
オッペケペッポー ペッポッポー

お堅い裃(かみしも) 角取れて
マンテルズボンに 人力車
いきな束髪 ボンネット
淑女に紳士の いでたちで
うわべの飾りは 良けれども
政治の思想が 欠乏だ
天地の真理が わからない
心に自由の 種を蒔け
オッペケペ オッペケペ
オッペケペッポー ペッポッポー

明治44年11月11日、舞台の合唱に見守られ、担架に横たわる音二郎は息を引き取るのです。

自作の現代オッペケペー節も披露した紅師匠。満場の拍手の中、新遊民記念講談は名調子で私たちの心を打ったのでした。

ゆかりの先人たち

  • 西南学院創立者C・Kドージャー
  • 国宝平原遺跡銅鏡を発見 原田大六
  • 桧原桜 進藤一馬
  • 洋画檀の鬼才 青柳喜兵衛
  • 新劇の祖 川上音二郎
  • 箱崎党 筑紫豊
  • クラウンレコード創立 有田一寿
  • 太閤町割り 豊臣秀吉

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