1268(文永5)年01月02日 蒙古の使者が国書を携えて来朝。海外への窓口である福岡は、663(天智2)の白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)と1251年~1284年2度にわたる元寇の役、そして1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)と3度の戦争の前線基地となったが、鎌倉時代に起こった国難は、まさに福岡を戦場と化した。ことの起こりは、1268年01月02日である。
元の皇帝クビライが高麗に命令し1268年正月に使者が大宰府へと到着、大宰府の少弐資能(武藤資能)は蒙古国書(日本側では牒状と記録)高麗王書状[を受け取り、鎌倉幕府へ送達する。わが国はこれを黙殺する。ゆかりの先人たちは
国難を救う 北条時宗
1251年06月05日~1284年04月20日
建長3年5月15日~弘安7年4月04日
鎌倉幕府8代執権、国難・元寇の役の総指揮にあたった青年執権で神風で文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)を防いだと言われているが、元の皇帝フビライ・ハーンへの厳しい対応と博多湾に石塁(防塁)を築き、九州各地の御家人に、異国警備役を命じ、再度の襲来に備えた防衛策が功を奏したといえる
蒙古来襲絵詞を遺した 竹崎季長
1246年~1314年
熊本県 / 肥後の国竹崎郷から、文永の役、弘安の役で参戦活躍。教科書で有名な絵巻物を制作、1293年02月09日に完成させる。
九州(肥後)の御家人で、自身の戦功を描かせた『蒙古襲来絵詞』で知られる竹崎季長は、文永の役の時は少弐経資(大宰府)の指揮下で活躍したが、弘安の役では、安達盛宗(泰盛の子)の指揮下のもと、志賀島、壱岐の海戦では敵の軍船に乗り込んで活躍して軍功を挙げ、多大な恩賞を与えられた
元寇防塁を名づけた 中山平次郎
1871年06月03日~1956年4月29日
京都府生まれ
医学博士で考古学者、九州考古学の開祖で鴻臚館が城内にあったことを特定する。「元寇防塁」の呼称の名づけ親。
元寇記念碑を建立 湯地丈雄
1847年04月04日~1913年1月10日
熊本県生まれ
第10代福岡県警部福岡所長を辞し、国防大治安論を宣揚し、明治37年に福岡市東公園の亀山上皇像を完成させる。
亀山上皇像を建立した 山崎朝雲
1867年02月17日~1954年06月04日
明治3年~昭和29年
福岡市博多区生まれ / 彫刻家高村光雲の門下生。1904年(明治37年)福岡市東公園に元寇記念碑・上皇像を建立する。
日本初の新聞写真大将・元帥 杉山元
1880年01月02日~1945年09月12日
北九・小倉北区 / 教育総監、陸軍大臣、参謀総長の陸軍3長官を歴任、1945年09月12日自決、夫人も後を追う。
「火宅の人」 檀一雄
1912年02月03日~1976年01月02日
山梨県生まれ / 無頼派と呼ばれながら戦後の文壇にくっきりと足跡を残し、能古島を死のすみかにした直木賞作家。
Posted by 管理者 at 2007-01-06 [ 先人紹介&エピソード ]





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