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運営:福岡スピリッツプロジェクト(iSEN、ふくおか新遊民倶楽部)

1831年10月08日~1891年03月31日

幕末から明治にかけて、女ながらも武士道に生きた女傑「高場乱」。1831(天保2)年10月08日に博多・瓦町(現在の祇園町)に生まれる。生家は江戸時代初期から続く高場流眼科で、父親の名前は正山、乱の幼名は「養命」。幼いころから人並み優れた知力と胆力を持ち合わせていたので、父親は養命を男子として育てた。10歳のときに「乱」と書いて乱世をおさめるよう「乱(おさむ)」と名付けられる。

近代日本の女傑・高場 乱(おさむ)

幕末から明治にかけて、女ながらも武士道に生きた女傑「高場乱」。1831(天保2)年10月8日に博多・瓦町(現在の祇園町)に生まれる。生家は江戸時代初期から続く高場流眼科で、父親の名前は正山、乱の幼名は「養命」。幼いころから人並み優れた知力と胆力を持ち合わせていたので、父親は養命を男子として育てた。10歳のときに「乱」と書いて乱世をおさめるよう「乱(おさむ)」と名付けられる。

漢学を究めるため亀井塾に入門。亀井南冥の孫、陽州に師事するやめきめきと頭角をあらわし、亀井塾四天王の一人に数えられる。亀井塾は自由をモットーとし、論語などの漢学ばかりでなく蘭学も学べる塾だった。その中の四天王といえば、今でいう大学教授のようなもの。乱は学問ばかりでなく武術も究めていたので、その名は長州の吉田松陰(乱より一歳年上)と並べられるほどだった。

20歳で高場眼科を継ぎ、40歳のとき住吉の人参畑跡に移転して眼科医院兼「興志塾」を開く。もともと乱の体は華奢で丈夫ではなかった。国事奔走のため京へ上る志を捨て、地元福岡で日本の将来を担う若者たちを育てようと心に決めたのだった。1873(明治6)年、後の玄洋社を率いる頭山満が19歳で入塾する。乱は頭山を見た瞬間、明治・大正・昭和の政財界にその名を轟かしたこの男の器量と天分を見抜いた。頭山もまた乱の人間としての大きさを直感的に感じ取っていた。

「人参畑の先生」こと乱の人徳を慕って大勢の博多の猛者たちが集まった。77(同10)年福岡の変を起こした武部小四郎、89(同22)年大隈重信暗殺を試みた来島恒喜は頭山とともに机を並べた仲間だった。犯行後に自刃した来島の死を嘆いた乱は病に倒れる。頭山ら門弟たちに看取られながら92(同24)年3月31日、冨も名誉もなく、金に頓着せず、ひたすら門弟の教育に人生をささげた高場乱。59歳の生涯だった。

2005年9月19日  神田紅独演会

コメント

 私の旧姓も高場です。兄から「高場乱」の本を10年くらい前にもらいました。
今、大学院で女性学をまなんでいます。
女性でありながら、男性として生きた高場乱に大変関心があります。教育者として生きた高場乱を手本として私も生きていきたいと思っています。

Posted by 苅田智子 at 2006-02-12

私邸唯一の和室に父から貰った頭山満の直書「忠孝」を飾っています。教職定年退職後も社会教育関係の仕事を依頼されたりして10年が経過。本年度から地元の校区でいくつものボランティア混じりの仕事に専念するようになり、人権・同和教育にも再び関わるようになりました。教科書記述も変えた「新しい部落史」の学習にも取り掛かり、絵巻物「天狗草紙」の読み取りから、地元福岡の解放運動(明治以降)の見直しに、父と親交のあった松本冶一郎・頭山満関連の資料も読み直しています。苅田智子様のご活躍も祈念しています。

Posted by 中西弘之 at 2006-07-18

 中西様
ありがとうございます。
今、修士論文の仕上げの段階でございます。ジェンダーの視点からの子育てと仕事の両立支援の問題に取り組んでおります。この問題が解決しないと、少子高齢化の経済問題も解決しないということだと思います。大学では、高齢者の経済問題について研究しておりました。高齢者の多くの方々が、健康にて、それまでの豊富な経験や知恵を生かして、生涯現役でご活躍なさることが、社会貢献にもなり、医療や介護の費用も軽減されることになります。どうぞ中西様のご活躍をお祈りいたします。

Posted by 苅田智子 at 2006-08-01

 私も高場としてこの世に生を受けました。しかし幼少の事情により今の姓とは違いますが、北海道にてこの高場の苗字を持つ人も少ないでしょう。屯田兵として現在の北海道深川市納内に実家があります。歴史的に浅い北海道のルーツを辿ってみたく思いました。実際には先祖とは結びつかないかもしれませんが、乱さんの紹介を見て、すくなからず感銘しました。

Posted by 北野裕一 at 2007-08-07

北海道にも、高場という姓の方がおられるのですね。私は、両親ともに先祖は佐賀ですが、熊本県人吉市で育ちました。
去年、佐賀に行って、親戚の人に会いました。高齢ですが、ご存命で、詳しく話しを聞いて来ました。梶原という家との強いつながりがあり、婚姻関係が何度もあり、士族同士の
結婚しか許されなかったこと、庄やとしての立場から、小作農の保証人になり、負債の返済のために農地を売り、それでも返済不能
のために外国に仕事に行った主人が、現地招集され生死不明であること。幼い頃から母子家庭になってしまったこと・・・歴史ずありました。

Posted by 苅田智子 at 2007-08-20

申し訳ありません、ここのブログの趣旨と違うかも知れませんがお許しください、2007年に投稿された、北野裕一さんにお聞きしたいことがあります。私の名前は、高場 博規、
北海道札幌にいました、釧路の自衛隊にもいました。お願いします

Posted by 高場 博規 at 2008-01-20

苅田智子さま、嘗て「平家物語を熱く語る」で一度メールを取り交わした事がありました。私は相変わらず、高場のルーツを捜しています。かなり分かってはきましたが、決定打にはなっていません。裏づけ不十分の言い伝えが大半です。私が影響を受けた叔父が佐賀の鹿島中村の住人で、徳といいます。長男が和雄、次男が正二といいます。その系統ならば、常陸からの流れなのですが?
高場乱は常陸→三河→尾張→唐津→熊本天草→秋月→福岡(黒田)との言い伝えです。
尚、北海道の高場は常陸→北海道です。
明治の初めに、農業技術を指導する為に、渡りました。以上、心当たりがあれば、投稿願います。

Posted by 鹿嶋の守 at 2008-02-10

鹿島の守様

私の先祖は、森芳太夫の三男の東平が、高場家に養子に入りました。もともと親戚だと思います。森という名前も北海道や京都、静岡にも多いように思います。とにかく親戚との
婚姻関係が多く、梶原、副島、など佐賀地域
での士族同士の婚姻が繰り返されてきています。兄弟も多く、親戚も多くいると思います

佐賀以外の地域のことはよくわかりません。
森という名前が、なんらかの手がかりになるかもしれません。

Posted by 苅田智子 at 2008-02-16

苅田智子様
 私の拙い投稿に早速ご返事を頂き、いたく感激致しております。
 苅田様が現在取り組まれているテーマに心から拍手を送ります。
 私達の生きているこの社会の根幹にはジェンダーが常に存在しています。
 私達の誰もがありのままの自分をさらけ、そしてありのままの他者を受け入れることが出来る社会のシステムが、一日も早く実現する事を願ってやみません。
 私は現在「介護付老人ホームに勤務しております。
 残念ながら、現役を退き、静かに余生を「終のすみか」として暮らしている高齢者達です。
 しかし、ここにもジェンダーが潜んでおり、このテーマがホームに於いて、大変大きな問題となっております。
 長文になってしまいました。
 最後に、一つだけ質問です。
 森芳太夫?って有名な方なのでしょうか?
 「森氏」のヒントを頂き、有難うございます。
 調査対象枠が広がり、本当に助かります。
 
 

Posted by 鹿島の守(横浜在、高場) at 2008-02-17

鹿島の守様

ご返事を書いていただきましてありがとうございます。両親が先祖のことを調査したり、供養したりと、とても熱心にやっていました。
そのときに森芳太夫という人が先祖であることがわかりました。この名前からすると、地域の指導的立場の人だった可能性があるようです。太夫という名前は、庄やさんのような立場の人が名乗ると聞いたことがあります。
私のふたりの祖父は、力を合わせて、熊本で五十年以上前に自動車学校を創立しました。祖父の兄の高場麟太郎は、銀行を佐賀の唐津で創立しています。この家は子孫が
絶えているようです。わたしが知っていることは、先祖から伝え聞いた話ですが資料なども
子供のときに見ています。

Posted by 苅田智子 at 2008-02-22

私は福岡県に在住する高場乱の子孫です。
インターネットで検索しているうちに検索したらここへたどり着きました。
とても魅力の人物だったと存じています。
子孫として、歴史や高場のルーツなどを学ぶ必要がありますね
あるけど手をつけていない高場乱について書かれている本を開いてみます。

Posted by 高場 at 2008-03-13

高場乱の子孫が、いらっしゃつたのですね。
とても、うれしく思います。本は、何冊か出ています。先祖について、調べてみるとおもしろいと思います。私は、小学生のときにたくさんの資料の中に自分が生まれた日の祝福する祖父の手紙を見つけて、生きる勇気をもらいました。しっかり生きようと思ったのです。
男尊女卑の思想が強い九州という地域で生きて行くことは、辛く悲しいことも多く、女性として働く母に代わり男兄弟3人の世話に明け暮れる日々でしたので、祝福されていたことを知り驚きました。
高場乱もきっと男性に生まれてきたかったと思ったのではないでしょうか。

Posted by 苅田智子 at 2008-03-18

福岡の高場様

黒田藩高場家には、唐津藩天草以前の事について、何か言い伝えは有りませんか?

常陸高場末裔古老曰、
鎌倉御家人で常陸に高場次郎という者がいた。この人は桓武平氏高望王の末裔で、若い頃、兄の居る吉田郷高場にいたので、高場次郎といわれた。後に頼朝からの昇進の書状に馬場次郎と書かれていたことより、以降、馬場次郎と名乗らざるをえなくなった。草書の高と馬はほとんど見分けがつかぬほど、同様の筆運びで、違いは最初の筆初めに点が有るかどうかである。祐筆が点を落とした為に、馬という字に読まざるを得なかった、ということです。もっとも、高場次郎は生澤五郎を使用人として、馬に関わる業を行っていたので、祐筆がわざと点を取って、皮肉って、意地悪をしたともいわれている。当時八田智家との確執があった為、このようなことをされたともいわれている。

Posted by 鹿島の守 at 2008-03-27

鹿島の守様
去年、佐賀の図書館にて見つけた家系図と家訓集が手元にあります。これは、高場との婚姻関係が蜜であった梶原家のものです。
この家系図の一番はじめにも桓武天皇第五
皇子・・・・・・・いろいろ書いてあり、高望王
となっています。鎌倉鶴岡に居住の景成の名前から・・・・関東から九州の佐賀に移住
したことなどがわかります。私の先祖は、梶原家から嫁いできた女性がおおいのです。
その関係から先祖をたどることを考えています。

Posted by 苅田智子 at 2008-04-25

 苅田智子様、鹿島の守様コメントを拝見させていただきました。2007.8.7にコメントさせていただき、私北海道でのルーツをひとつわかったようでなりません。また、2008.1.20に投稿しています高場博規さんは、私が小学校に上がる前に離れた義兄かと思われます。24年間あっていませんが、私のフォトアルバムには、私が岡山に居たときの面倒見のいい兄貴の写真がいくつか残されております。仕事柄全国各地飛びまわる中なかなかサイトを拝見できないことがありますが、この場をお借りして大変感謝しております。

Posted by 北野裕一 at 2008-07-27

北野祐一さん、良かったですね!!!
博規さんの投稿は、ここのブログを使って、当に祐一さんの手がかりを探していたのですね!そうですか、24年ぶりですか、苅田智子様、高場乱さんのお陰による、お引き合わせですね。
お引き合わせは荒野を駆け巡る、お二人が同時に懐かしく思い始め、「合いたい」気持ちが余りにも強かったので、先祖の力で、巡り合わさしてくれたのでしょう!
お二人は近々お会いするのでしょうが、ここのブログでの事、そして高場一族の事、ルーツ等、口外できる内容がありましたら、是非是非、聞かしてください。
苅田智子様、ご無沙汰致しております。
毎日、お勉強で、さぞやお忙しい事と察しております。
私は相変わらず、「高場のルーツ」を追いかけております。その後、ビックリニュースはございません。
今回のお二人のこと、苅田様がこの自由コーナー投稿欄に、最初に投稿された事の功績は大変おおきいものです。
このような、良いニュースが舞い込んで来ると、ここに投稿している皆さんも、とても嬉しいものですね!

Posted by 鹿島の守 at 2008-07-29

鹿島の守様、北野祐一様
お久しぶりです。ここの投稿欄がお役に立てたようで、嬉しく思います。
高場という姓名が、とても珍しいので、同じ姓名の方の存在は、やはり驚くわけです。
私の父親も早く亡くなっておりまして、兄弟五人が、みんな苦労人です。熊本県人吉市で環境運動である「球磨川源流水リレー」のリーダーである高場英二は、私の弟です。
クラフトパーク石野公園にいる陶芸家です。
もし、九州に行くことがありましたら、観光地ですので、是非お立ち寄りください。

Posted by 苅田智子 at 2008-08-02

私は苅田智子の弟 高場 俊郎と申します
お盆で帰省した姉がこのサイトを検索して見よとのこと 私は10歳から3男ですが高場家の供養を法華経にて続けてまいりました。
地元熊本にてオカリナ奏者・歌手「俊郎」として活動をしています。高場家の菩提寺が佐賀県多久市にあり以前訪ねたことがありますが唐津にいた高場麟太郎のお墓を探しています。
高場家六親権族の供養をさせていただくことを私の使命として日夜努力してまいりました。唐津銀行の創立者の子孫は絶えその無縁になりし墓を訪ねております。
私高場家においては長男に子孫賜ることができず大きな先祖の誤りありと思うてさんげさせいただいております。

Posted by 高場 俊郎 at 2008-08-13

 高場俊郎様
日々のご供養ご苦労様です。私は北海道に住んではおりますが、仕事で全国各地さまざまなところに滞在し、仕事をさせていただいております。私みたいにさまざまな事情で、姓が変わりましたが、私自身最初は、高場として姓を受けたことに感謝していると同時に、各地の寺や神社、風土を巡っていて自然と現在の姓であったり、高場の姓であったりと、そのゆかりにばったりと出会うこともさまざまありました。無縁になってしまったということは、残念でもありますが、しかしこうしてさまざまな高場姓がいる限り、どこかでつながっている縁は必ずあるはずです。先祖の偉人たちに感銘することも供養のひとつと考えます。以心伝心是非ご供養を続けてくださいね。

Posted by 北野裕一 at 2008-08-21

兄の一郎さんの家に行きましても、俊郎さんの家に行きましても、どこの親戚を訪ねても、
必ず、仏壇があります。もちろん私の家にもあります。生涯独身で生きることを15歳の時に決心していましたが、俊郎さんの説得によって、若い頃、法華経で修業することになりました。
お陰様にて、幸福な結婚生活を送らせていただいております。あのときに俊郎さんのお言葉がなければ、生涯独身を貫いていたと思います。息子ふたりに恵まれて、健康にて
暮らしています。俊郎さんのお陰です。感謝しています。ありがとうございます。

Posted by 苅田智子 at 2008-08-22

実はまことに不思議なご縁にて私の祖父の長男高場麟太郎の菩提寺がわかりました。唐津銀行の創設者と聞いておりましたが子孫が二人幼少にて亡くなり途絶えておりましたが妻文さんのご親戚深堀家にて供養がされてるともことこの紙面にて思いが通じたのでしょう。たまたま私オカリナ奏者俊郎のCDを購入した親戚の方から連絡をいただき感無量でございます。ありがとうございます。宮崎の地からその方が尋ねてこられました。高場乱という偉大な人物からこんな手配をいただい感謝にたえません。

Posted by 高場 俊郎 at 2008-10-23

俊郎様

慶應義塾創立150周年の恩師の記念講演と俊郎さんの東京でのコンサートが同日同時間でしたので、出席できず残念でした。メール連絡もしましたが、PC連絡もとれませんでした。

Posted by 苅田智子 at 2008-10-25

慶應義塾の150年の記念式典は立派なものでした。天皇皇后両陛下をお迎えして、盛大に挙行されました。慶應義塾に皇后陛下が
お見えになったことは、歴史上初めてのことだそうです。美智子様のご母堂と私たちを育てた祖母の実家は、佐賀県多久市のご近所でした。名前も梶原から副島に嫁いで同じ姓名でしたので、母は、間違えられて祝電をもらったそうです。
ご成婚の発表された日に、私は、一歳の誕生を迎えたばかりで、その日に歩き始めたそうで、歩き初めて50年になります。何かとご縁もあり、式典を見ていて、とても感動致しました。              

Posted by 苅田智子 at 2008-11-11

波の伊八の欄間彫刻を訪ねて、千葉の山奥
のお寺を探していきました。去年のこと、慶應義塾の仲間と現地の歴史に詳しい仲間の紹介で連れて行っていただきました。
波を彫らせたら、日本一という伊八の作品を
見学しました。JRが大々的に宣伝していただいたので、電車の中でもポスターを見ました。200年くらい前でしたか、地域住民の支えもあり、地域のお寺の欄間彫刻を彫る人を
大切に育てた歴史がありました。江戸の作品は、戦争などにより消失していますが、千葉の山奥のお寺には、残っていました。伊八
の他の彫刻家の作品も天狗と義経の作品など見学しました。芸術文化を育てたのは、地域の力だったのです。感動しました。座敷に正座して、すばらしい欄間彫刻を拝見しました。

Posted by 苅田智子 at 2008-11-15

私たち兄弟五人がお世話になった副島カ子は、旧姓が、梶原カ子といいまして、台湾に
40年間公務員の副島官市とともに、赴任しておりました。子ども7人のうち、ほとんどの子を台湾のぼうこう諸島で産み育てました。この祖母の伯母に当たる梶原キワは、高場良左衛門に嫁いでいます。その子が、麟太郎、虎市、只二、良夫、ツモ(田中)、タエ(吉富)、ハル(伊東)の7人です。只二の孫が私たち。良夫の子孫は、宮崎県小林市にいました。田中ツモさんのお墓は、千葉県市川市にあり、子孫の方が国立市におられるようで連絡があったようです。つまり、父と母の先祖は繋がっているということでした。

Posted by 苅田智子 at 2008-11-19

先祖との対話
祖母や両親が、まだ、元気だった頃、会話も多く、家事手伝いをしながら、昔の話、生きる知恵など、伝え聞いています。男の兄弟や15歳年下の妹の知らないことも、たくさんあると思います。男の子は、家のお手伝いをあまりしませんでしたから、話をする機会も少なかったのでしょう。妹は、父親も祖母も覚えていません。家の歴史や生き方、考え方などは、興味がなければ、伝わりません。わたしの息子たちも、何も興味をもちません。顔や表情は、先祖に似ていても、考え方や感じ方はどうなのでしょうか。真面目に働くことのみでも伝わっていれば良いと思います。
先祖は、他人の借金の支払いばかりしていましたが、子どもこころに、理不尽なことに納得がいきませんでした。生きることは、厳しい
ことだと思いました。子孫のものにも伝えて行きたいことです。

Posted by 苅田智子 at 2008-11-25

銀座の資生堂ビルでセミナーがありました。
エレベーターの前に早稲田大学の先生が、おられて、挨拶しました。あとでNHKのニュースで、その方が、首相と小沢氏との討論についてインタビューを受けているところを見ました。とても立派な先生だと思いました。
加藤仁氏の講演は、定年後の高齢者の生き方について、示唆に富んだお話でした。
助産師をしていた女性が、世界117カ国を旅行してまわった話には感動しました。戦争で恋人を失い、生涯独身で生きた方だそうです。
その大胆な生き方は、人間の可能性の広がりを感じました。定年後は、おもいっきり、自己本位に生きたということなんでしょう。

Posted by 苅田智子 at 2008-11-29

慶應義塾で、塩川正十郎氏の講演がありました。
原稿もなしで、一時間半ほどの間、国際社会との共存共栄、経済の持続的発展、年金財政、職業化する議員などについて、熱心に講演された。87歳には、とても見えない。若々しいお姿と日本のために懸命に働いて来られたことが、こちらにも伝わってきました。
小泉内閣では、利益誘導型の政治に印藤をわたして、行政改革を大胆に実行されました。郵政民営化、道路公団民営化、特殊法人、国立大学の独立法人化など実現しました。塩川氏の政治的な力に感動しました。

Posted by 苅田智子 at 2008-12-01

3日は、ダークダックスのコンサートの受付などをお手伝いしました。慶應150周年の記念行事でした。人吉の作曲家の犬童球渓の旅愁を歌ってくださいました。熊本から新潟に転勤になり、ふるさとを思い創った歌だと言う解説をつけてくださり、とても嬉しく思いました。俊郎さんの歌声喫茶に伺ったときに犬童
球渓の甥である鶴上氏にお会いいたしました。ご立派な方でした。私も犬童球渓音楽祭に出たことがありました。連合音楽祭とかも出ました。西瀬小では、石井先生、愛甲先生に音楽教育をとても熱心にやっていただきました。

Posted by 苅田智子 at 2008-12-09

今日は、白井厚先生の講演を拝聴しました。
大学と戦争についてのお話でした。慶應は陸軍や海軍に校舎を提供したが、東大は拒否した。アメリカに対しても断った。独立自尊の大切さ、戦争に対する反省から、国益よりも世界中を俯瞰するおおきな人類愛で考えていくことが大切とのこと。
 はみ出して生きることを恐れず、迎合することの愚かさについて考えさせられたお話でした。

Posted by 苅田智子 at 2008-12-12

坂東眞理子先生のお話を拝聴しました。
数年前、大学院で歴史学者の脇田晴子先生の授業を受けたときのお話を思いだしまた。
平安時代は、通い婚でしたので、女性が財産を持ち、蚕産業を興して成功していると、そこに別れたはずの元夫が驚いて、戻ってくるというお話と似ていました。
子どもは、女性とその一族が育てる。女性を中心とした社会であったということです。
その後、戦争などのために男を中心とする社会に変化して行ったとのことでした。
イギリス女王の息子が王位につくのですから、女系は問題にならない。双系で生まれる
わけですから、男女の差別などないわけです。とても興味深いお話でした。

Posted by 苅田智子 at 2008-12-28

父親の33回忌で人吉に帰郷しました。
息子の成人式と重なり、息子は母親がいなくてもひとりで準備して、出席していました。
20年前は、父親の13回忌と重なり、この息子の出産のために、欠席して、手伝いに来ていた実家の母親も、喪主にもかかわらず欠席でした。悲しみの歴史と言う名前を付けられた息子は、その重さを背負い生きていくのでしょう。成人式後は、静かに読書をしていました。弟の娘も成人式を迎え、海外留学
するのだそうです。今年90才になる夫の父親から多額のお祝いが贈られて来ました。

Posted by 苅田智子 at 2009-01-14

 人吉に帰郷すると、小林市から、父親の従兄弟家族など一族が勢揃いしました。知らなかった先祖のこともいろいろ知ることになりました。高場麟太郎は、祖父の兄ですが、佐賀銀行の創立者のひとりなのだそうです。佐賀
銀行によってお墓が建立されているとのことでした。また、祖母副島カ子は、美智子妃殿下のご母堂と、従姉妹なのだそうです。
近所で名前が同じなので、親戚なのだろうとは思っていました。わたしと同姓同名であった智子さんともお会いしました。

Posted by 苅田智子 at 2009-01-15

 結婚は、先祖をはじめとする親族、友人、知人から祝福されて、初めて幸福なものになると思います。私の兄弟が祝福されない結婚をしたために、親族の嘆き悲しみは異常な程でした。私たち夫婦にその怒りと悲しみを長時間にわたり激しくぶっつけて来た伯父がいました。もう亡くなりましたが、そのことで兄弟間は、うまく行きません。男の子が授かったのは、5人兄弟のうち私だけです。このままだと子孫が絶えてしまいます。仕方のないことですが、悔しくてなりません。

Posted by 苅田智子 at 2009-01-19

 今日は、父、高場優の33回忌命日です。
私の弟、高場英二が、今日まで小田急百貨店町田店にて職人展に九州から来ています。両親が豊かな愛情をいっぱいに注いで
育成した人間です。どうぞ彼をよろしく御願いします。

Posted by 苅田智子 at 2009-01-19

小学校二年生の時に、学校に毎月一巻づつ
配達される百科辞典を親に買ってもらいました。その第三巻だけ弟がぼろぼろになるまで
読んでくれました。私は、家にあった「幸福学」という姓名判断の本をぼろぼろにして、全部内容を記憶してしまいました。結婚や子供の名前をつけるときに活用しました。どのように生きていけば、幸福になるのかについて、この本から多くのことを学び、日々の幸福を手に入れました。父親が、この本によって一族の子供たちすべての名前をつけました。しかし、幸福は簡単には手にはいらないのです。日々の努力と智恵がなければ、幸福にはなれない。母親が、智恵の有る子に
なってほしいと願い、智子となづけられました。親の深い愛情に感謝です。

Posted by 苅田智子 at 2009-01-24

父親の33回忌の時に、兄が、立命館大学応援団時代に身につけたエールを舞いました。
ふたりの弟の歌と手拍子で堂々としたものでした。妹の夫が、あまりの感動に号泣していたそうです。わたしも感動しました。33回忌の引き出物は英二さんの陶器と俊郎さんの音楽CDでした。さらにお経も俊郎さんの堂々たる読経にみんなであわせて、あげました。
すべて自前で父親の法事をする兄弟でした。
たいしたもんです。

Posted by 苅田智子 at 2009-01-30

今日は、次男の二十歳の誕生日でした。友人、知人、○人まで来て、お祝いしました。
ケーキを私が作り、できあがった頃に仕事から夫が帰り、みんなで歌を歌い、ケーキを食べました。苺2パック、生クリーム2個使った大型のケーキでした。感だけが頼りですが、
もう職人芸に達しており、誰も褒めませんが
自分では、「すごいな」と満足しました。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-01

子供の時に、わたしの誕生日だけ、大きな二段のケーキを母親が買ってきていました。それが他の兄弟の誕生日にはないのです。
どうしてなのかは、多分、わたしの誕生日は祝日であり、日本全国で祝ってくれる日でした。しかも、国宝になった青井神社のお祭りの日でした。さらに言うなら、たったひとりしかいない女の子だから・・・あとで妹が生まれましたが。やはり、うちは、女尊男卑だったのかもしれません。ピアノ、総絞りの着物・・・・
やっぱり特別扱いでした。
もしかしたら、橋の下から拾ってきた子と言うのは私のことかも・・・・・。本当は、赤ちゃんの時に大けがさせたことがあるのでしょう。
今、その顔にあった傷は、消えていませんが
わからないほどになりました。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-04

今日は、ワークライフバランスのシンポジウムに行ってきた。1970年代頃に「ポストの数ほど保育園を」と言って運動した女性たちがいた。ウーマンリブ運動である。あれから40年経過した今も、女性たちは、保育園が不足しており、充分に仕事との両立ができる状況にはない。優秀な女性の人的資源が社会の中では眠っている。それは社会基盤の弱さにも繋がる。生産労働人口の減少に伴い、
高齢者、女性の労働力を有効に活用していくことが求められている。そのための保育園や労働環境などの生活基盤整備が急がれなければならない。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-06

今日、私のとなりを歩いている人が有名な
アナウンサーでした。「○○さんですよね」
「わたしの家計簿の裏の写真があなたの写真なんですよ」と言うと、しばらくして「ココアミルクのですね」そうですねと答えた。「家計簿つけながら、毎日、あなたのお顔を拝見してましたよ」
都会に住んでいるとこんな幸運もあるんですね。うれしかったです。とても彼女が身近に感じられました。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-06

俊郎さんのホームページにおひな様のお人形があった。それを見ていると、弟や妹の小さい頃を想い出す。目がぱっちりしたかわいらしい弟妹で、うれしくてうれしくて仕方なかった。わたしにお人形なんて必要ないくらい、
毎日、弟妹をだっこしていた。母親の仕事があまりにハードなので、何とか力になりたいと思った2歳児の記憶がある。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-08

昭和天皇の病状がよくなかった昭和63年、わたしにとって試練の年であった。六月に妊娠がわかり、すぐに兄から毎日のように経営相談の電話があった。債務保証した人に逃げられて、債務を負うことになり、祖父、父と
続いていた家業が倒産した。そのために毎日毎日泣き暮らすことになった。妊娠中の精神状態は、生まれるまで最悪であった。
そして、男の子がうまれ、「憂う、悼む」という
意味をもつ「悠」と言う字を名前につけた。最悪の環境の中でも彼は逞しく育ち、素直に育った。ありがたいことである。感謝。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-10

父親との会話
15才のときに父親のガンの宣告、そして19才の頃、父親の看病のために病院に泊まり込み、父親のとなりのベットで過ごすことが多かった。祖母フジの話が幾たびあったが、お腹が空くと、おにぎりをつくってくれたそうである。その母親が九人の子供を産み40くらいで病気になり、寝たきりになったことは父親の精神状態に大きな影響を与えていたようだ。さらに勉強が大好きで、国立高専に合格したものの、経済的に貧しく、進学を断念したことを悔いていた。49才の誕生日の半年前、48才でこの世を去った父親のことが忘れられない。残った母親を喜ばせたいと結婚、出産、そして、通信教育で大学を卒業。母親は、そのたびに涙を流して喜んでくれた。さらに大学院では、女性学で女性の人権問題について学び、今も、学会で次世代育成研究会にて研究を続けている。人生への挑戦は続いている。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-11

 スリムな体になりたいと、三時間も運動したために腰痛でたいへんなことになった。息子がマッサージしてくれて、大部、改善した。
息子がいてよかったと思ったことは、灯油やコピー用紙を運んでくれること、マッサージがうまいこと、電球の球を替える時である。結婚したときにも同じことを思った。ありがたい。腕力のなさと身長の低さを補い、あまりある恩恵に感謝である。このマッサージは、
台湾で学んだ祖母副島カ子からの伝来である。祖母と息子は、面識もなく年も100才違うがちゃんと文化として伝わっております。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-13

13日金曜日

今日は、兄の53才の誕生日だった。いつも家族全員に忘れられていた。過ぎてから想い出す日でもあった。小泉今日子も今日、誕生日らしい。彼女のファンがそう声高に言っていた。
兄は、二十歳で大黒柱になり、大きな責任を背負い、大きな債務を背負い、肉体労働によって、そのおおきな債務を返済したすごい過去がある。私たち弟妹には、誇らしい兄なのである。感謝。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-13

最後の晩餐

父親の最後の晩餐は、栗きんとん、野菜ジュースでした。わたしが、昼間にスーパーで買ったものでした。その少し前、どんべぇという
うどんを食べていると、父親がじっと見つめてきたので、あげました。元気になったら、うどんやをやりたいと言ってました。うどん大好きな人でした。「兄の貢を呼んでくれ」が最後の言葉でした。私は、危篤に気づいて、すぐに家族、親族に電話をいれました。そこに幼い妹をつれた母親が来ました。たくさんの親族に看取られて、父親は、亡くなりました。48才でした。咽喉ガンでした。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-15

 今日から確定申告の提出が始まった。そして税理士の夫と、後継者である息子は、税務署に出かけて行った。今日まで大変な忙しさであったが、さらに多忙な日は、半年ほど続くことになる。息子たちが、父親の仕事をうまく後継できるように全力を尽くしたい。それがわたしの仕事である。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-16

親から子や孫に

先祖は、子孫の幸福を常に願い、守り、育んで来たのだと思います。子孫の幸福のために先祖の成仏を願い、供養をして、因縁を断ち切る努力をしていました。親の後ろ姿を見て学び、自然に勉強も手伝いもする。子供の名前も幸福になるように願い、画数も調べて最高に良い名前をつけたのです。
しかしながら、子供は、親の心を知らないのです。結婚するときも幸福な名前に嫁ぐように願ってつけているのに、自分から大凶運のところへ嫁いで苦労しなくていいのに苦労している。これは親からの智恵を受け継いでいないからです。もっと親を喜ばせる人生、涙して喜んでもらえる人生にしなければならないのです。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-18

幸福という贈り物

毎年、夏になるとたくさんの贈り物が届く。
夫の父親は、毎年、たくさんの桃を贈ってくれる。弟の嫁の里からおいしいスイカが届く。
そして、東京の知り合いから、毎年サクランボが届く。その他にもいろいろな贈り物が届く。洋服も買ったことがないくらいだ。恵まれていることに感謝である。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-18

池袋で内閣府参事官のお話を聞く

きのうは、少子高齢化担当の参事官の女性がシニア社会学会に来て、お話をしてくださった。労働行政に詳しい、本多さんである。旗振り役である公務員の仕事と生活の調和は、まだ厳しい状況であるが、まず隗より始めよと言うことで、コンサルタントの指導
などを受けているとのことであった。カエル!
ジャパンのキャンペーンについて話された。
この会は、老若男女の様々な人のお話を聞くことができる楽しい会である。わたしの隣の
女性は妊娠中で放送の関係の人であった。講演終了後は、おしゃべりと酒と料理で
わきあいあい。漬け物談義に花が咲いた。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-20

「嘱託分化について」のお話

いったい何のことかとおもいきや「食卓文化」であった。今日は、ブラームスの会がある。
毎月一回集まって、誰かの講演を聴く。
ウォーキングのメンバーも重複しているが、
とても楽しい。今日は、電車だから飲める。
昨日は、芋焼酎「一刻春」を飲んだ。球磨
焼酎はないのかと何度もしつこく聞いたがなかった。今日は、どこの焼酎を飲むことになるのだろうか。毎日飲んだくれているようだが。
とにかく父親からのDNAはすごい。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-20

「欧州、それは、戦争の歴史である。」

今日は、ドイツの俘虜を収容した習志野、板東のお話であった。「バルトの楽園」は映画にもなっている。この松平健が演じた松江所長は、たいへんな人格者であった。音楽を通して、ドイツ人との心の交流を描いた実話である。この所長の名前は、珍しい名前であるが、わたしの長男と同名である。小野寺さんは、音楽を通してNPO活動を続けておられて
ヨーロッパでの戦争の背景について、詳しく
お話をしていただいた。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-20

沖藤典子さんのお話を聴く

今日は、銀座の資生堂でシニア社会学会の連続講座で、いつもお世話になっている次世代育成研究会の沖藤座長のお話でした。二年前に出版された「母の乱、無慈悲と慈愛」
という本について語られ、涙があふれました。
八人の子供を残して、男と家出した母親の過去を25才まで知らなかったということ、そして
残された八人の幼子たちは、一致団結して育ち、母親に恨みをもちながらも、深く愛して
DVによって家出したことに理解を示しながらも、一年に一度集まり、みんなで大泣きして、大ゲンカとのこと。親に早死にされた私の兄弟と同じだと思いました。親を深く愛しながらも、幼くして捨てられた?子供という立場は同じであり、進学断念した悲しみや苦しみは共有できる感情なのです。親の立場を子供が理解するには、長い時が必要なのかも知れません。講演を聴きながら、涙がじんわりとあふれたました。
 自由民権思想の影響をつよく受けられた母上の自尊感情が、DVをゆるさなかったということであり、女が耐えることを当然とした時代に反逆されたことは、女性の生き方を見直す上で重要な点であると思いました。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-21

生きたお金の使い方

この男性を育てた母親は、どんなに偉大な人間であったことだろうかと思った。そのことを
仕事を手伝う息子に伝えて、自分が子育てに失敗したことを残念に思っている旨を伝えると笑っていた。もうすぐ夫の母親の誕生日なので、夫は、母親にお祝いを贈っていた。なんとも素晴らしい生き方を見せてくれる人である。もっとも、そのように仕向けたのも妻である私なのだが。母親に感謝である。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-23

ホテル ザ マンハッタンでパーティがあり、
大盛況であった。何人もの知り合いの若者と話しをして元気をもらった。ピアノや音楽演奏がとても華やかで、来賓として、一番前の席で聴かせてもらった。受付では、会長自ら、ご挨拶に来られて、並々ならぬ歓迎を受けて光栄であった。慶應義塾の仲間の絆の強さには頭が下がる思いだ。元応援団員であった男性は、六大学すべての人たちにエールを送り、最後の慶應の時には、声が出なくなり、それでもがんばっておられた。感動した。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-25

息子がいることの幸福

山口百恵さんの長男が、歌手デビューしました。母親によく似ている感じがします。感じのいい青年です。私にも私によく似た息子がふたりいます。本当に幸福なことだと思います。自分が、男性としてできなかったことを息子ができるわけですから。ありがたいことです。母親の口癖や価値観、性格などもしっかり受け継いでいますから、うれしい限りです。
子供のときに兄の友達が、妹の顔はどんな顔なのか教室に見に来ることがありました。
性別の違うもうひとりの人間は、興味津々なのでしょうか。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-27

上野へいくことに

ある展覧会のチケットが、販売され初めて久しいが、スルーしていたら、いつの間にか、その招待券が五枚になってしまった。
家族に話すと行きたいと言うので、予定をキャンセルして、上野にいくことになった。
いつも、うちは、こんな感じで、ディズニーランドなどの招待券などが集まり、家族で行くことになるのだが。その経済観念のすごさと言うか、質素倹約の生活態度には恐れ入るのである。何か買い物をするとぼろくそに言われるので、言えない。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-27

アンジェラ、アキ15の君へを聞いて

15才のときに妹が生まれ、父親のガンの宣告があり、高校に合格し、英検に合格し、新聞つくりにがんばって、ピアノも下手なのに猛練習してた。とにかく、余命一ヶ月の父親を目の前にして、図書館の本を読むことで救われていた。有島武郎の「惜しみなく愛は奪う」は、人生を決めた一冊であった。
情熱をもって、一生懸命に生きるということを読み取った。それ以来、独立自尊、他人に何を言われようが、自分の生き方を貫くことに徹してきた。それなりに幸福を手にしていた。
15の時は、苦しい事ばかり、毎日泣いて暮らしたが、25才まで、ほとんど毎日泣いていた。それでも、簿記三級から一級まで必死に勉強して、国家試験一次合格、大学、大学院卒業。親はいなくてもなんとかなった。人生は、自分で切り開くものだ。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-28

福澤諭吉展にいく

家族全員で、上野の東京国立博物館に行った。入り口の近くで、同じ頃、慶應で一緒に学んだ知り合いに会った。嬉しかった。
子供達も福澤諭吉の何かを掴んでくれるといいと思った。今まで知らなかった家庭人としての諭吉の姿を見た思いであった。暖かい家庭を築いて、男女平等の思想を持っていた。結婚した時に両方の名前から一字をとって名字を名乗るなどおもしろいが、現実味のないことを言っていることが諭吉らしいのではないかと思った。私なら、「高田」「苅場」と言う名字になるのだろうか。笑える。

Posted by 苅田智子 at 2009-02-28

みかんの保存方法

みかんをいただいた。いつもうちに遊びにきている人が持ってきた。暖かいところに置いておくと、みかんはすぐにかびてみどり色になる。
寒い戸外に置いた方が新鮮なままである。
重ねていることもよくない。
そんなことで、みどり色のみかんが箱の底に何個かあった。もう一つのダンボール箱を持ってきて、かさならないように置いた。
みかんひとつひとつに愛情をかけるとおいしてままでいてくれる。これは、人間にも言えることだと思う。家族にも愛情を掛けると病気をしない。元気でいてくれる。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-02

また上野へ行くことに

久しぶりに知り合いからメールが来て、上野に一緒に行きたいとのこと。招待券がまだ一枚あるし、超スピードでスルーしていく家族と一緒では、よく見ることも出来ず、「帳合いの法」も見ていない。もう一度じっくり見に行くことになった。織田有楽の茶碗や財閥を起こした慶應山脈のひとたちの活躍の様子も見てきたい。誘ってくれた英理さんありがとう。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-02

「人間の尊厳」につて

この「人間の尊厳」が踏みにじられることが、昔からなのだが、多すぎるのではないかと怒りがこみ上げてきて仕方ない。産まれたばかりの子供を突然に他人にあげてしまった祖父のことを想い出し、祖母の悲しみを思った。
養子にだされ、同志社大学在学中に学徒出陣して、ビルマで戦死。音楽大好きの遺伝子は弟、俊郎に受け継がれて花が咲いているが、彼の無念さは、計り知れない。
こんなことが世の中に多すぎはしないか。特に女性や子供は、その犠牲になることが多すぎるのだが、今では、非正規労働者の増加もそうだ。一部の資産家がもうけすぎていないか。もう一度、「人間の尊厳」について考えるべきである。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-03

他人を幸福にすること

他人を幸福にするなんて、おこがましいのだが、まず、自分が幸福でなければ、そんなことはできない。まず自分は幸福なのか問うことから始めなければならないのではないか。
置物を買ったくらいで、幸福になるものだろうか。うちにも、ナマズのようなサンショウウオのようなよくわからない置物がある。作った人の指紋がいっぱいついている。
不幸なことがないのは、この置物のためなのだろうか。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-04

幸福になるために

幸福になるために、良い結婚をして、みんなに祝福されることが、まず必要なことだろう。
そのためには、自分を磨いて、良いご縁の異性とめぐりあうことが求められるだろう。
それから、良い運勢を呼び込む名前や方角なども調べられたら、調べた方が良いだろう。自分から大凶運のところに嫁いで、幸福になろうとしても無理と言うものだろう。先人の智恵がそこにはあると思うからだ。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-04

まあちゃんの存在の大きさ

兄が「まぁちゃんの子か」と言われて、無罪放免になったと泣きながら語った話を息子にしたら、33年も経つのに「まぁちゃん」の存在はそんなにみんなの心を掴んでいたのか。それはすごいぞ。と祖父のことを語っていた。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-04

2000円の幸せ

今日、香川県から加ト吉のたこ焼きとコロッケが届いた。油で揚げて食べると超幸せになるのだ。外はカリカリで中はしっとりでマヨネーズとおたふくソースに青のりと鰹節をかける。コロッケも牛肉がいっぱいでうまい。
たこ焼きは、50個で950円、コロッケは20個で1050円。送料は米なども頼むために無料。これは、イオンで依頼できる。
幸せは、半月は続く。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-05

大雨の中、上野へ行く

寒い大雨の中、朝から出かけました。
12時の待ち合わせに間に合うためには、10時には家を出ないといけない。少し早めについて、トイレに行くと、今日、卒業式の袴の女の子に会い、少し会話した。技能を身につけていたので、就職はできたと言う。
12時に久しぶりに友人のえりさんに会う。ふたりで食事して、しゃべり過ぎて、博物館の閉館時間が気になり、腰を上げ、博物館に行く。閉館まで、じっくりとふたりで見学する。
途中、しゃべる声がうるさいと怒られる。
慶應の卒業生だろうか、ものすごい熱心に
展示物を見学している。しかも静かに。
福澤諭吉は、教育者として、多くの人材を世に送り、日本の発展に大いに貢献した偉大な人なんだと改めて思った。一度も兄弟ケンカをしたことがないと言うことにも驚いた。
三人のお姉さんと終生仲良しであったことも
彼の人生を大きく支えたことになったのであろう。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-07

母ちゃんがつくったふとん

リビングに長男が産まれたときのベビーふとんがふたつおりして、ソファーにある。夫が見つけて来ておいたのだろう。22年前、私の母親が、初孫のために縫ったふとんである。
アルツハイマーになる少し前のことである。夜泣きする孫をいつも面倒見てくれた。
私がへとへとになっていると助けてくれた。
その時の母親の年齢は、54才。私もその年齢に近づいている。その息子は、後継者として、夫の仕事を今日も教えてもらいながらがんばっていた。感謝。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-07

91才の誕生日
夫の父親の誕生日、91才になる。病気には
ご縁がなく、元気である。運動と栄養を自分で管理して、いつも元気な様子なのである。
医者は信用せず、自己管理をしっかりしている様子で、検診など一切受けないと聞いている。検診を受けると手術されて死ぬのだと言う。とにかく自然体である。戦争体験があるために、決して幸福なことばかりとも言えないが、住友化学と言う一流企業で定年まで働くことができたことは、幸運だったのだと思う。自営業の父親に保証人を依頼された時にも、父親として子供三人を育てる責任があるから出来ないとはっきりと断っている。
その生き方に私も多くのことを学んでいる。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-08

泥の中から伸びてきた野菜

最近、泥ネギとゴボウなどの地中から伸びてきた野菜を多く使う料理をよく作る。食事のときにお客さんがいることも多いので、たくさんつくるためには、野菜をいっぱい使うことにしている。経済性と栄養を考え、ニンニクも使うので、元気になる。毎日、うちでご飯を食べる人がいるために、喜んでもらうように考えて料理をしている。買い物も楽しい。食育と言うくらい、食べることは、こころを育てることになるのだと思う。朝から、パンを焼くことも楽しく思える。なぜなら、おいしいからだ。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-10

三月十日

東京大空襲の日だ。「ガラスのうさぎ」の著書で有名な高木さんが、近所におられた。
本を何冊かいただいた。本を読んで、涙が止まらず、大泣きした。戦争で家族を次から次に亡くされている。この三月十日の大空襲の様子が描かれている。父親の経営する工場からガラスのうさぎが残骸の中から見つけられるのである。二度と戦争はしてはいけない。そして、家族のありがたさをかみしめたい。母親の姉である伯母から、兄と弟と夫を亡くした悲しみについて聴いたことがあり、靖国神社に一緒に行ったのである。戦争は、一度に多くの家族を奪っていくのである。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-11

若者が家に来る

前から、来たいと言っていた慶應の後輩が訪ねてきた。二時頃来て、五時半までいた。よく話すことがあるなと感心する。忙しい夫まで、話の中に入ってきたので、余計に彼が帰るタイミングを逸してしまった。鹿児島出身の親だから、顔が濃い。話は尽きない。故郷が近いので、共通点も多く、楽しいひとときであった。名前がめでたい。ことぶき君だ。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-12

米60キロ

お米をいただいた。どうやって運ぶか、毎年悩む。子供たちに依頼したら、「髪の毛が爆発しているから、外にでられない」「眠い」
仕方ないので、自分で運ぶことになり、腰を痛める。やはり、相当にきつい。お米券でもらいたいが、現物なのだ。うれしいやらきついやら。子供が欲しくて避妊治療に莫大なお金がかかった友達にこの現実のきびしさを教えたい。こどもはあてにならないのだ。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-14

腰痛

今日は、ウオーキングで花見ができることを楽しみにしていたのだが、腰痛のために取りやめた。弁当つくる元気もでない。せっかくの良い天気なのにもったいない。
息子にマッサージしてもらい、少し元気になった。ジムに行って、お風呂に行こう。
うちのバルコニーに咲く、菜の花や名前もわからない花がきれいだ。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-15

洗濯日和

山のように洗濯をしていると、朝六時のバスで、相模原へ向かったはずの夫が、帰ってきた。ついたとたんにレスキュー隊のお呼び出しである。せっかく四時間も掛けてでかけたのに、トンボ帰り。こんなことはよくあること。
何しろ、24時間体制のレスキュー隊なのである。困っている人のところにすぐにかけつけて
対応にあたる。それがプロなのだ。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-16

パワーサイクリング

ジムで自転車の50分コースに参加した。汗の量が半端ではない。走る脂肪燃焼もハードだが、こちらもかなりハードだ。おかげで体重が減った。多分、こんな運動を続けていけばやせるだろう。ほとんど20代の男性の中に
50代の女の私が参加していること事態が笑える。うちの息子たちにこのような趣味はなく
お宅なのが残念だ。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-17

男児育成の難しさ

祖母も母も男児の育成には苦労していた。
そして、私もさんざん苦労している。女の子に比べると男児の方が難しいと感じている。
子供のときから元気すぎて、女の子とは明らかに違う。ベビーベッドに赤ちゃんが寝ていても、平気で飛び込んでいく。赤ちゃんをベッドの下に突き落とす。それはそれはすさまじい。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-17

大切なこと

亡くなった親の法事なんかしなくていいから、大学卒業して、就職して、結婚して、子育てして、きちんと社会人として生活してくれたら、親は、それで満足なのだ。そんな普通のこともできないのに、法事なんかしてもらっても、親は喜ばない。それは、自分が親だから
わかることかもしれない。大学入るのも大変だし、学費支払うことも大変だから、切実にそう思う。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-18

三分咲きの結婚記念日

もうすぐ結婚記念日である。3月25日神戸で仏前結婚式で家族と親族と友人の質素な式であった。両親が信仰していた先祖供養の会で行い、母親は泣いて喜んでくれた。
入籍は夫の母親の誕生日2月25日である。
法華経の25番観音経にも基づいているのだが、同居しはじめた日も1月25日であった。
母親が早く、結婚式をするように迫り、桜が三分咲きの頃に結婚式を挙げた。桜満開のときに式を挙げた友人がいて、母親が、三分咲きの方がいいんだと強気の発言をしていた。満開の桜咲く、千鳥ヶ淵でボートに乗り
靖国神社参拝をして、ふたりの写真を撮った。さらに6月15日に高田馬場で恩師や友人を招待して結婚披露宴を行った。それから10ヶ月後、桜満開の4月に長男が産まれた。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-18

ここは、個人の日記帳か?

Posted by 一寸通りすがり at 2009-03-18

女性の人権について

祖母や母親を見て、自分はどう生きるべきなのか、どう生きれば幸福な人生を送ることか゜できるのかについて考えてきた。伯母たちの人生についても参考にした。身近な女性の歴史を見れば、自分の人生についても見えてくる。田舎から伯母を頼って、上京してきたが、伯母から多くのことを学び、幸福を手にしてきた。毎回、別れるときに姿が見えなくなるまで私にニコニコしながら、手を振ってくれた。その無邪気な笑顔は、祖母副島カ子にそっくりであった。京都帝国大学の学生と結婚したものの、連れ合いは、戦争から帰国後に病死。
私と同様に15歳年下の妹がいる。それがわたしの母である。女学校を一週間休んで、実家に帰ったそうだ。歴史は繰り返しているのだ。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-19

食卓文化

昨日は、ブラームスの会であった。ギリシャの宴会の模様のカラーコピーを見ながら、お話を聞いた。その絵には、男性ばかりで、女性がひとりもいない。イギリスでもエリザベス
女王の姿しかないそうだ。女性には、公式の宴会などに出る資格さえなかったと言うことらしい。全員が男性であり、召使いも男性である。そこには、どういう思想が流れていたのだろうか。日本では、平安時代までは、女性を中心とした社会であったが、戦争が始まると男性社会へと変貌している。西欧でも戦争の歴史であるから、女性は、排除されてしまったということだろうか。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-20

東京マラソン

知り合いが、東京マラソンに出場することになった。いつも元応援団員ということで、エールを贈られる元気いっぱいな人である。
昨日は、菊正宗「蔵出貯蔵」を飲んでいたら
おちょこについでくださった。いつもニコニコで
みんなのまとめ役である。わたしも短距離だが、地域のマラソン大会に出ていたので、話をしたら、結構同じ時に同じ道を走っていたらしい。今は、ウオーキングの仲間でもある。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-20

ブルース・リー

今日、ジムに行くと、キックボクシングをとりいれたエアロビクスをやることになった。大声を張りあげながら、パンチ、けりを音楽にのって、打ち出していく。これが最高に気分がいい。
汗も半端ではない。もっていたタオルが絞るほどだ。おかげで体重激減。感謝。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-20

自立と共生

銀座の資生堂で浜口先生の講演、いっぱいの人で驚いた。友人が来てくれたが、断られて、外で二時間も連れ合いと待ってくれていた。あとで東京のオフィスで会ったのだが。
アメリカにカトリーナと言う大型の台風が来たときに、略奪が横行したが、日本の阪神大震災のときには、コンビニに長蛇の列が出来、お金を支払って、食料などを購入していた。
震災に遭って、行政や地域は崩壊したが、こころの中の構造はこわれなかった。敗戦のときも、ヒッピーやアノミーにならない。「自立と共生のテクノロジーは試されている」今和次郎からミッシェル・フーコーを紹介された。
熱いゆるやかな関係、連帯が至るところに起きている。今までなかった繋がりがでてつつあるとのこと。このシニア社会学会のつながりもそうだ。社会のあらゆるところで連携しているのだ。生きて居る限り、誰かのために生きる。そして、自立と共生、感謝だ。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-21

フル回転の一日

家事をして、PC研究会に出かけ、情報工学の元千葉大教授に個人指導を受けて、三田会の話し合い、その後、帰宅して家事、料理
その後、ジムで3キロ走る。水風呂に入っていると、今日、東京マラソン完走した女性の話を聴く。うれしそうだった。来年は、私も挑戦しょう。この風呂では、顔なじみとの会話が、すごく楽しい、どこの魚屋がうまくて安い
だの情報が飛び交う。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-22

祝福されなかった?祖父母の結婚

高場の祖父母は、福岡の小倉で出会い、熱烈な恋愛の末に、結婚を決めたものの、当時25歳と17歳のふたりは、親の大反対にあったと聴いている。祖父の家は士族、祖母の家は平民であり、両方の親から反対されている。熊本人吉に駆け落ちしてきたが、長男は、生後一ヶ月で死亡している。明治の民法では、親の同意がなければ、入籍することはできなかった。何とか同意を取り付けたらしい。次男の名前は、祖父がつけたが、三男の名前は、戸籍にいれるときに曾祖父が、自分の名前の一字をとって、良一にしたと聴いている。私は、子供の時に、先祖の歴史を知り、親に祝福されない結婚は、苦難の歴史になるらしいことを感じていた。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-22

祝福された私たち夫婦の結婚記念日

今日は、結婚記念日。うん10年前、愛媛県の親戚中から毎日のようにお祝いが贈られて来て、わたしも大変おどろいたのであるが、どんなに親族が喜んだ結婚であったのか理解できた。
神戸で結婚式を挙げたときに定員が決まっていたので、全員に声を掛けることができず
夫の母方まで招待できなかった。マッサージ師の伯母は、歴代の日本の首相を3人、多くの文化人などを施術して本を出していた。叔母は、一流会社の副社長夫人であった。真面目に堅実に生きて来た一族であった。
私は、この一族に嫁ぎ、人間にとって真面目に情熱をもって日々を生きることの大切さを教えたもらった。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-25

厚生労働省 雇用均等・児童家庭局定塚由美子課長のお話を聞く

少子化対策と仕事と生活の調和についてお話を聴いた。男女共同参画局にいらした頃からのご苦労されたことなど、この分野の遅々たるあゆみに腹立たしい思いが、みんなの共通した感情としてある。結局、財源問題にいきつくのだが、消費税引き上げなしでは解決しないのかもしれない。経済活性化によって税収増加になることが必要なことであろう。
若者の就職や収入の問題から保育園の財源確保に至るまで、経済の問題は大きい。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-27

焼酎やの同級生が、上京

高校の同級生から、メール。同級生が上京するから集まれとのこと。この仲間は、
みんな飲んだくれ。誰も帰らず、朝帰りのこともあった。カラオケで一晩過ごしてしまった。
この厳格な家で育成された私が、朝帰り。この仲間は、実にいい。いつも言いたい放題で
ぼろくそだ。私の兄を神のように尊敬している男が、兄に似ているが、人吉の飲んだくれの遺伝子をしっかり受け継ぎ生きて居ることもうれしい。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-28

千葉県知事に森田健作さん当選

二十歳になったばかりの息子も、初めての投票をした。合計4票は森田さんへ投票。
森田さんの奥さんは、私の高校の後輩らしい。夫も日本ビクターの社員だったし、熱烈なファンでもある。有名人の方が、千葉県のために働いてくれそうだし、今まで経済よりも人権問題などに力を入れてこられたから、これからは、地域の経済活性化などに力を入れてほしい。堂本さんにお会いすることが多かったのだが、国際感覚が素晴らしく、経験も豊富でいつも圧倒されていた。今までの千葉に無い女性としての感性を政治に生かされていた。今後とも堂本氏のご活躍を期待している。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-30

映画「降りてゆく生き方」の森田さんに会う

これからの生き方を問う映画を作られた森田貴英氏にお会いして、意見交換をした。
戦後、日本は、豊かな社会を目指して、経済大国になり、目標を実現したかに見えるのだが、格差社会と言われ、自殺者も多く、鬱病になるなど、必ずしも幸福なことばかりではない。ここでもう一度、原点にもどり、「降りてゆく生き方」について考えてみよう。
森田氏は、国際弁護士として、経済的な頂点に立つ方々の顧問として、生きて来られたが、経済的な成功が必ずしも幸福なことばかりではなく、犯罪者として転落する人なども存在し、人の生き方について、深く考えて来られた様子であった。「自然に帰れ」と言うメッセージなのだろうか。もっと幸福になる生き方が他にあるのではないか・・・・登った山からは降りてゆくもの、遭難はしたくない。
映画のご成功をお祈りしたい。

Posted by 苅田智子 at 2009-03-31

母親の教育

子供のときに母親の大きな机があった。
母親は、洋服のデザイナーでファツションショーには、自分がモデルになって出ていたらしい。そんなわけで、私と弟ふたりは、いつも母親の大きな机にすわって、絵を描いていた。その引き出しには、チャコペーパーみたいな服をつくる道具がいっぱい入っていて、
わくわくドキドキしながら、座っていた。
学校では、図工が大好きだった。美容院で聞かれると「図工が好き」と言っていた。
それがいつの間にか、国語や算数が好きになって図工はどこかに逝ってしまっていた。

Posted by 苅田智子 at 2009-04-02

夫婦というもの

 夫や子供たちのために毎日生きているようなものだが、自分の時間との調和も難しい。
夫や子供との対話が大切である。女性の方が精神的にも、肉体的にも男性よりも強く逞しいと感じることが多い。とにかく、男性をささえているのは、女性であり、その逆もある。
つらい事、苦しいこと、みんなしゃべるといい。そのために家族がいるのだ。

Posted by 苅田智子 at 2009-04-04

腰痛に効く超音波

美顔のために内緒で買った超音波が、腰痛に効くらしい。家族の体の打撲や腰痛などに
超音波が、活躍している。年取るといろいろと故障もでるが、顔よりも体の方が大切であり、しわよりも腰痛の方が生活に支障をきたすために対応が求められる。顔の美醜よりも健康第一になる。

Posted by 苅田智子 at 2009-04-05

少子化が進む理由

子供達の大学の授業料を支払う4月である。
私立にふたりが行くということは、大変なことである。老体にむち打ち毎日働く親たちがいる。そして、子供の数は、ふたりが限界だと実感する。五人産んだ私の母親の無責任ぶりには腹が立つ。父親が早死にしたのも理解できる。しなくても良い仕事を無理して引き受けて、つらい日々を送ることにもなる。親になってそのつらさもわかる。

Posted by 苅田智子 at 2009-04-06

人生の落とし穴

思いも掛けず、突然、人生には、いくつもの落とし穴がある。そこに落ちないように日々
誠実に情熱を持って生きていかなければならない。勇気も知恵も胆力も必要だ。日々の暮らしの中で、どんな小さなことでもバカにしないで、情熱をもって取り組むことが大切だ。
失敗をしても、それに対して誠実に対応していくことが求められている。相手のことを考えて、誠実に接することが求められている。
暴言や暴力があるかもしれないが、許し、受け入れて、愛をもって接することが大切だ。
幸福に生きるために誠実に日々を生きることが、人生の落とし穴に落ちない秘訣かもしれないと思う。

Posted by 苅田智子 at 2009-04-06

公園で花見

桜満開の季節だ。公園で夫とふたりで花見をしていたら、足つぼマッサージができるスペースがあり、胃、肝臓心臓、腎臓のコーナーがあり、足の形に足を置くと、石があり、ツボのマッサージができるようになっている。
私は、いろいろな小石の上を喜んで歩くのだが、夫はものすごく痛がり、逃げていた。

Posted by 苅田智子 at 2009-04-08

バルコニーの野菜

ネギや春菊、菜の花は、料理に欠かせない。バルコニーに行くと、何らかの新鮮な野菜が成長している。ミニにんじん、ミニトマト、
ハーブ類も成長している。日当たりがいいので、良く育つ。米のとぎ汁を毎日、愛情こめて
与えていると応えてくれるのである。
4段の網にハーブを干せば、ハーブティ、鯵を開いて干せば、鯵の開きが出来あがる。
お日様に感謝である。

Posted by 苅田智子 at 2009-04-08

やっと、日記が終わった様ですね。
やれ、やれ、ですね。
それにしても、高場乱と「バルコニーの野菜」とはどの様な関連なのか?
この様な、「である」調のひとりよがりの一方的な日記投稿は慎むべきである。

Posted by 一寸通りすがり at 2009-04-22

20歳で高場眼科を継ぎ、40歳のとき住吉の人参畑跡に移転して眼科医院兼「興志塾」を開く。

書きたいのなら、堂々と実名で書いてください。

Posted by 苅田智子 at 2009-04-22

苅田様

高歯乱について思いがあるのだと察します

一方、一寸通りすがりさんは 他人批判がお好きなのでしようか

高場乱の墓碑は 福岡市東区の崇福寺にの玄洋社墓地にあります。

一度 墓碑の前で考えてみられてはどうでしようか 

墓碑名は勝海舟
立派な御墓です

吾思う故に吾在り
人間は考える葦

人様のコトヲケナスヨリ、吾の事を思うのが大事デシヨウ

Posted by 高場 at 2009-07-21

冒頭の高場乱の場ノ字を間違えました。
改めてお詫びします。

誤:高歯乱
正:高場乱

Posted by 高場 at 2009-07-21

何かたいへんなことになってすみません。この高場乱のコーナー辞めてください。苅田智子の身内のものです。これ以上恥をかくこともないと思います。私の高場は森家からの養子のものです。本人に言っても聴かないものですから。深くお詫び申し上げます。

Posted by としろう at 2009-08-25
一言どうぞ
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