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運営:ふくおか新遊民倶楽部(旧二〇〇七年の会)
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1937年06月10日~2007年11月13日
大分県別府市

1958年10月21日西鉄ライオンズは稲尾投手の5連投4連勝で巨人軍に奇跡の日本シリーズ3連覇を果たす。10月17日の第5戦10回裏で本人が劇的サヨナラホームランを打ち、「神様、仏様、稲尾様、救いの神の稲尾様」と称えられた。

1858年10月27日 -~1919年01月06日 
安政5年~大正8年

ニューヨーク州ニューヨーク市出身。第25代、第26代アメリカ合衆国大統領。1905(明治38)年、日露戦争で日本・ロシア間の調停をつとめた恩人。早く戦争を終結させようとする金子堅太郎全権大使に協力し、停戦からポーツマス条約での和平交渉に尽力した。この和平交渉の斡旋によってルーズベルトは1906年ノーベル平和賞を受賞した。

新渡戸稲造の「武士道」を読み感銘した親日家で、福岡市出身で明治憲法起草者・金子堅太郎とはハーバード大学の同窓生であった。

1655~1708年11月10日
明暦元年~宝永5年

福岡藩の家老、詩歌文章に優れた文人。千利休の茶の精神をもとにして福岡藩の茶道、南方流を生み出した。書や和歌に長じ、貝原益軒の門人で禅寺も開基した当代随一の文化人だった。

名は五郎佐衛門重根、号は実山、のち出家して宋有。父重種は1万5千石の重臣で家督を長男重敬が相続。次男重根は3代藩主光之に45年間仕え、最後は隠居頭取として三千石余を受けた。詩歌文章に優れた文人で、貝原益軒の門人でもある。和歌は中院黄門通義卿に古今伝授を受け、26歳の時の歌は後水尾法皇の勅評を受けた。茶道は千利休と高弟の南坊宗啓の茶道の秘書とされる「南坊録(なんぼうろく)」を書写補足して、秘伝9カ条にまとめ「南坊録」7巻を著し、以後茶道界に南坊流宗匠としての名を残す。1707(宝永)年光之死去後出家し、住吉松月庵に閑居。翌年6月光之の継嗣をめぐる綱之騒動に巻き込まれ、嘉麻郡鯰田村に幽閉、同年11月綱之の命により殺害された。獄中記「梵字艸(ぼんじそう)」3巻がある。40年後、6代藩主継高により東林寺(博多区博多駅前3丁目)に改葬された。(西日本新聞発刊福岡県百科辞典・平山昌宏)

たちばなりゅう(なんぼうりゅう) とは

筑前黒田家家臣立花実山を祖とする。 江戸初期に成立。 織部流を本とし、道安流と遠州流を加味して、一派を開いた。 「南坊録」を基とするので、一名南坊流ともいう。

1235年~1308年12月29日
嘉禎元年~延慶元年

駿河国安部郡〔静岡市〕に誕生。本名・南浦紹明(なんぼしょうみょう)

宋で修行し、1270(文永7)年10月28日福岡市姪浜興徳寺に入、3年後太宰府横岳(よこたけ)の崇福寺に移り、そこで30年以上弟子を育成した。後宇多天皇に求められて京都にのぼり、鎌倉で1308(延慶元)年12月29日74歳で没した。興徳寺所蔵の大応国師着色画像は国の重要文化財であり、「大応国師と白ウサギ」報恩伝説が残されている。

1914年12月14日~1995年10月30日
大正3年~平成11年

福岡県田主丸町  京都近代美術館館長、美術評論化連盟会長、京都造形芸術大学学長など歴任し、日本美術界に貢献する。京都近代美術館館長、美術評論家連盟会長、京都造形芸術大学学長、横浜市美術振興財団理事長、美術館連絡協議会理事長などを歴任。著書には『画人游歴』『昨日今日の作家たち』(芸艸堂)、『河北倫明美術論集』(講談社)、『河北倫明美術時評集』(思文閣)などがある。

東京営団地下鉄の路線図ポスターで一躍有名になり、下町のナポレオンいいちこの宣伝責任者アートディレクター河北秀也氏の伯父にあたる。

1198年 -1281年
建久9年~弘安4年

1268(文永5)年01月02日大宰府の責任者・太宰少弐として元の皇帝クビライの使者に対応。幕府の鎮西奉行として文永、弘安の役で活躍する。

鎌倉幕府の有力御家人。武藤氏は当時、大宰府の責任者として太宰少弐の地位にあったため、この資能の時から少弐姓を名乗るようになったという。武藤資頼の子。

資能は北九州に大きな勢力を持ち、幕府の鎮西奉行として働いていた。1268年、蒙古の使者の対応にも当たっている。元寇直前に出家して覚恵と号して家督を長男の少弐経資に譲ったが、老齢の身でありながら自身も対元の総司令官として参戦した。しかしこのとき、奮戦したものの博多の街を元軍によって焼かれたため、戦後に非難を浴びている。弘安の役にも老齢の身を押して出陣し、壱岐島の戦いで元軍相手に奮戦したが、このとき敵兵の攻撃を受けて重傷となり、まもなくその傷がもとで死去したという。

1912年02月09日 - 1968年12月16日
大正元年~昭和43年

大分県宇佐郡天津村布津部(現在の宇佐市下庄)出身。第35代横綱。 69連勝、優勝12回、全勝8回などを記録。1943(昭和18)年大宰府に「双葉山相撲錬成道場」を開設。

博多の豪商。2007年(平成19年)に、ユネスコの世界遺産への登録が決定された石見銀山を1526(大永6)に発見。

1911年03月21日~1995年07月04日
明治44年~平成11年

山門郡瀬高町出身。六字斎観峰と号し、福岡を中心に全国に書道を普及。世界平和のために国際交流に尽くす。

1849年11月11日~1912年09月13日
嘉永2年~大正元年

明治時代を代表する軍人。1876年(明治9)10月29日、明治政府に対する士族反乱の秋月の乱を小倉鎮台を率いて攻撃平定する。 1877(明治10)年 - 小倉城に配備された歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加。熊本城北方の田原坂へ転戦、激戦の結果軍旗を失う。乃木はこれを終生忘れることはなかった。この事が後に乃木の自刃の遠因となる。

陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院院長。畏敬と親愛を込めて乃木大将などの呼称で呼ばれることも多い。

東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」とも呼ばれた。若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ帝国留学において質実剛健な普魯西(プロイセン)軍人に感化され、帰国後は質素な生活を旨とするようになったという。また、明治天皇の後を追った乃木夫妻の自殺は、殉死として美談にもなった。

秋月の乱

1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、旧秋月藩の士族宮崎車之助、磯淳、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約400名によって起こされた反乱である。神風連の乱から3日後の10月27日、今村を隊長とする「秋月党」が挙兵、まず明元寺で警察官を殺害(日本初の警察官の殉職)。旧秋月藩の士族はあらかじめ旧豊津藩の士族、杉生十郎らと同時決起を約束していたため、このあと豊津へと向かい、10月29日に到着する。しかしこのとき旧豊津藩士族は決起しない方針を固め、杉生らは監禁されており、談判中、豊津側の連絡を受けて到着した乃木希典率いる小倉鎮台が秋月党を攻撃。秋月側は死者17名を出し(政府軍の死者2名)江川村栗河内(現・朝倉市大字江川字栗河内)へ退却、10月31日に秋月党は解散し、磯、宮崎、土岐ら7名は自刃した。

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