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運営:福岡スピリッツプロジェクト(iSEN、ふくおか新遊民倶楽部)

1864年08月01日~1919年11月26日

元治元年~大正8年

福岡市生まれ / 日露戦争に活躍し、「明石一人で大山満州軍20万に匹敵する」と賞賛を受ける。陸軍大将。第7代台湾総督。

明石のしごとは、(中略)気流を洞察するところからはじまり、それにうまく乗り、気流のまにまに舞い上がることによって、一個人がやったとはとうてい思えないほどの巨大な業績をあげたというべきであり、そういう意味では、戦略者として日本のどの将軍たちよりも卓絶しておりーー君の業績は数個師団に相当する。と、戦後先輩からいわれたことばは、まだまだ評価が過小であった。彼一人の存在は在満の陸軍のすべてか、それとも日本海に浮かぶ東郷艦隊のすべてにくらべてもよいほどのものであった。司馬遼太郎「坂の上の雲」六より

(略歴)1864年(元治1)08月01日、福岡藩士明石助九郎と秀子の次男として生まれた。1866年(慶応2年)福岡藩内の尊王攘夷派は第二次長州征伐のとき弾圧され尊王攘夷派だった明石助九郎は切腹させられた。父のいない明石家の生活は困窮を極めたが母親は残された2人の息子を「武士の子」として厳しく育てた。

元気の者で利発だった明石元二郎は東京で安井息軒の塾に入り1877年(明治10年)学資の心配のない陸軍幼年学校に入学。さらに陸軍士官学校に進んだ。元二郎は語学に堪能でフランス語は常に一番、ドイツ語・ロシア語も操った。1883年(明治16年)卒業と同時に歩兵少尉に任ぜられ丸亀の歩兵第十二連隊に配属された。

1887年(明治20年)陸軍大学校に入学し、中尉に任ぜられた。陸軍大学校を卒業すると青森の歩兵第五連隊に配属され、翌1890年(明治23年)参謀本部に転勤した。

29歳の時、15歳の群國子と結婚。その2年後ドイツに留学したが日清戦争開始で帰国した。1901年(明治34年)、駐フランス公使館付武官となり、翌年駐ロシア公使館付武官となりヨーロッパを情報将校として飛び回りロシア国内の情報を収集し分析した。

参謀本部長山県有朋の英断によって明石元二郎に100 万円(国家予算は1億5千万円)という巨額の工作資金が与えられた。その資金でフィンランドの革命家シリヤスクやロシアのレーニンを援助し、帝政ロシア崩壊の工作を進めた。「血の日曜日事件」や「戦艦ポチョムキンの反乱」を画策し、バルチック艦隊の出航を遅らせ日本海海戦を大勝利に導くなど明石元二郎の日露戦争での貢献は数個師団に相当するといわれた。

日露戦争後の1907年(明治40年)明石元二郎は少将に昇格し、朝鮮の憲兵隊長として赴任した。のち韓国駐剳(ちゅうさつ)憲兵司令官となり武断政治を推し進める統監寺内正毅の下で義兵運動を弾圧した。1910年(明治43年)07月に統監府警務総長に任じられ、同年08月に韓国併合が実施された。

その後、参謀次長、第六師団長を経て、1918年(大正7年)第七代台湾総督に任ぜられ、翌年には台湾軍司令官を兼任した。明石元二郎は台湾の経済発展をおしすすめ、教育に力を注いだ。水力発電所を建設、鉄道など交通機関の整備、学校の建設などである。

陸軍の演習に参加するため日本に帰ってきていたが病気で倒れ大正08年(1919)11月26日福岡で亡くなった。享年56歳。遺体は遺言により台湾に埋葬された。

台湾総督となった19名の中で台湾の地に埋葬されているのは明石元二郎だけである。そこには明石元二郎の台湾に対する思いと台湾の人々から慕われた明石元二郎をみることが出来る。ちなみに平成12年(2000)02年26日に台湾北部の三芝郷に新たな明石元二郎の墓が完成した。

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