1831年10月08日~1891年03月31日
幕末から明治にかけて、女ながらも武士道に生きた女傑「高場乱」は、1831年10月08日、博多・瓦町(現在の祇園町)に生まれの眼科医。講師塾を主宰し、頭山満などを育て玄洋社設立のきっかけをつくる。
生家は江戸時代初期から続く高場流眼科で、父親の名前は正山、乱の幼名は「養命」という。幼いころから人並み優れた知力と胆力を持ち合わせていたので、父親は養命を男子として育てた。10歳のときに「乱」と書いて乱世をおさめるよう「乱(おさむ)」と名付けられたのである。
乱はまず、漢学を究めるため亀井塾に入門した。亀井南冥の孫、陽州に師事するやめきめきと頭角をあらわし、亀井塾四天王の一人に数えられるほどであった。亀井塾は自由をモットーとし、論語などの漢学ばかりでなく蘭学も学べる塾だった。その中の四天王といえば、今でいう大学教授のようなもの。
また、乱は学問ばかりでなく武術も究めていたので、その名は長州の吉田松陰(乱より1歳年上)と並べられるほどだったというからすごい。
20歳で高場眼科を継ぎ、40歳のとき、今の福岡市博多区住吉に移転して眼科医院兼「興志塾」を開く。人参畑跡として、碑が残っている。
もともと乱の体は華奢で丈夫ではなかったために、国事奔走のため京へ上りたいという志を捨て、地元福岡で日本の将来を担う若者たちを育てようと心に決めたのだった。
その塾に、1873年、後の玄洋社を率いる男、頭山満が十九歳で入塾する。乱は頭山を見た瞬間、この男の器量と天分を見抜いたという。頭山もまた乱の人間としての大きさを直感的に感じ取っていた。明治・大正・昭和の政財界にその名を轟かした頭山の出発はここからだったのである。
さて、興志塾には、「人参畑の先生」こと乱の人徳を慕って大勢の博多の猛者たちが集まった。1877年福岡の変を起こした武部小四郎、1889年大隈重信暗殺を試みた来島恒喜は頭山とともに机を並べた仲間だった。犯行後に自刃した来島の死を嘆いた乱は心痛のあまり、病に倒れる。やがて、頭山ら門弟たちに看取られながら1892年03月31日、冨も名誉もなく、金に頓着せず、ひたすら門弟の教育に人生をささげた高場乱は静かに息を引き取った。59歳の生涯だった。
Posted by 管理者 at 2005-11-16 [ 先人紹介&エピソード ]


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