1917年09月07日~2005年10月30日
福岡市出身。中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)から日大予科に進学。1936年のベルリンオリンピック200m平泳ぎで金メダルを獲得。1940年に第一線を退くまで、200m平泳ぎで世界ランキング1位の座を守った。
1917年09月07日~2005年10月30日
福岡市出身。中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)から日大予科に進学。1936年のベルリンオリンピック200m平泳ぎで金メダルを獲得。1940年に第一線を退くまで、200m平泳ぎで世界ランキング1位の座を守った。
1911年11月21日~1984年02月06日
香川県高松市生まれ / 野武士集団と言われた西鉄ライオンズで三年連続日本一を勝ち取り元気な福岡を全国に知らしめる。
49年04月14日対南海戦、巨人の4点リードで迎えた9回表、南海は飯田のホームランでまず一点を返すと、連打を放ち無死ニ、三塁のチャンスで打席に入った筒井がレフト前に2点タイムリーを放ち1点差とした。だが代打岡村の放った打球はファースト正面に飛ぶ絶好のダブルプレーコース、まずは川上が二塁に送球してフォースアウト、そしてショート白石が一塁に転送しようしたとき、一塁ランナーの筒井が白石に組み付くように滑り込み、白石は送球できなかった。白石は「なにするんなら!」と怒鳴り、筒井も「何を!」とやり返した、ベンチを飛び出した三原監督は守備妨害だと強く津田審判にアピールしたが認められなかった。三原はベンチに帰ろうとすると、筒井と白石がまだ遣り合っていた。これを見た三原は自分を抑えきれなくなり、筒井を右腕でポカリとやった。三原監督にはシーズン出場停止の処分が下ったがその後100日に短縮された。
1882年10月04日~1991年06月18日
福岡市中央区生まれ / 100歳で『新しい灸学』を出版し、104歳まで聴診器を持ち、「男性長寿日本一」として108歳で逝去す。
ある死亡記事"108歳、男性長寿日本一、福岡市の原さん死去。 1991年(平成03年)06月19日の朝刊社会面に記事。著者:安藤憲考氏のプロローグより。
志免太郎は1882年(明治15年)10月04日、原田種紀、トエの四男として、福岡市荒戸町85番地に生まれた。父は黒田藩に仕える武士であったが明治維新を体験、県庁の役人、しかし失業と不遇の中、これ以上「子」はいらぬと「締め」、志免太と名づけたが戸籍係りの間違いか「郎」が足され「志免太郎」になった。
高等小学校卒業後、親元を離れ福岡市大浜三丁目(現・博多区大博町)の原三信の医学生となり、独学。検定資格を取り京都府立医専(現・京都府立医大)に入り、卒業。九州帝大医学部で「灸」(きゅう)の研究に取り組み、結核に感染したウサギに灸をすえたら抵抗力が増すことを突き止めた論文でわが国初の「お灸博士」に。1929年開業、43年香椎原病院設立、院長の椅子を長男に譲った後も104歳まで聴診器を持ち「生涯一医者」を貫いた。
・104歳まで医師として患者をみたこと ・灸の研究で博士号を取った最初の人物 ・ホタルが日本住血吸虫の宿主、宮入貝の天敵であると突き止めホタルの生態、飼育の研究、天皇にもホタルの卵、幼虫を献上した ・静岡県の風土病の病原体を発見した等々業績多岐に亘る。
詳細は
原志免太郎「日本一長生きした男」著者:安藤憲考、発行:学校法人、原学園
T.N.
1329年~1383年 元徳元年~弘和3年
後醍醐天皇の皇子。1361年征西大将軍として大宰府を制圧し「日本国王」と称し、明に使いを送る。
1359年(延文四年、正平十四年)08月06日午前2時福岡県小郡市の筑後川流域で日本三大合戦の一つである大原合戦が火蓋を切った。南北朝時代の最大の合戦で川中島、関が原の戦いに並ぶ戦死者を5400名(太平記)だした大戦でした。南朝方の懐良親王(かねながしんのう)を奉ずる菊池武光~高良山に布陣~が大宰府の奪取を目指して、北朝方の少弐頼尚(しょうによりひさ)~筑後川北岸に布陣~に挑んだ激戦・筑後川の戦いでした。この合戦を契機に少弐氏は衰退し、後に大宰府を懐良親王が占拠し、南朝方の約10年にわたる全盛時代を迎えました。