1891年12月25日~1961年10月18日
福岡市生まれ/川上音二郎の妹カツの娘で、音二郎と妻貞奴に養育される。
1899年川上一座が渡米のさい子役として同行。サンフランシスコ在住の画家青木瓢斎(本名年雄)に預けられ、本格的演劇を学び、女優となる。1914年主演映画「おミミさん」でまだ無名の早川雪舟と共演し、後結婚。数々の共演の一つでフランスでベストセラーを映画化した「ラ・バタイユ」で「光子」を演じる。ゲランが出した香水「ミツコ」で話題を呼ぶ。1960年「戦場よ永遠に」に共演の翌年逝く。
1891年12月25日~1961年10月18日
福岡市生まれ/川上音二郎の妹カツの娘で、音二郎と妻貞奴に養育される。
1899年川上一座が渡米のさい子役として同行。サンフランシスコ在住の画家青木瓢斎(本名年雄)に預けられ、本格的演劇を学び、女優となる。1914年主演映画「おミミさん」でまだ無名の早川雪舟と共演し、後結婚。数々の共演の一つでフランスでベストセラーを映画化した「ラ・バタイユ」で「光子」を演じる。ゲランが出した香水「ミツコ」で話題を呼ぶ。1960年「戦場よ永遠に」に共演の翌年逝く。
1797年~1863年11月19日
大牟田市宮部出身、長身で長大な竹刀を使い、面突きを得意とした柳川藩の剣豪で天下の剣豪を相手に対等な勝負をして全国に名をとどろかせた。
柳川藩の武術師範役の子として幼児の時から槍と剣を祖父種芳に学ぶ。18歳で剣道に突き技を採用し、さらに同斬(ぎ)りの技を考案して、独持の武道大系を整え、後に大石神影流を創始した。35歳で上京、当時剣名高かった鏡新明智流の桃井春蔵、北辰一刀流の千葉周作、直心影流の男谷精一郎、小野派一刀流の白井亨らに挑戦し、天下の剣豪に対等な勝負をして、一躍その名が全国にとどろいた。剣道具の面に縦一本を入れ、布だった胴を割竹として現在の剣道具の原型を考案したと伝えられている。四国土佐藩、長州萩藩及び九州一円の諸藩から多数の入門者があり、その門弟から有名な剣客が輩出した。次男の種昌も進と称し、父に劣らぬ剣豪だったと言われる(福岡県百科事典 花田衛)
1947年03月15日~2004年12月30日
福岡県朝倉市朝倉町に誕生、囲碁界のビッグタイトルである名人、十段、王座、棋聖、天元、 本因坊などを獲得した我が国代表的棋士で、棋界の改革に取り組む。
1937年06月10日~2007年11月13日
大分県別府市
1958年10月21日西鉄ライオンズは稲尾投手の5連投4連勝で巨人軍に奇跡の日本シリーズ3連覇を果たす。10月17日の第5戦10回裏で本人が劇的サヨナラホームランを打ち、「神様、仏様、稲尾様、救いの神の稲尾様」と称えられた。
1912年02月09日 - 1968年12月16日
大正元年~昭和43年
大分県宇佐郡天津村布津部(現在の宇佐市下庄)出身。第35代横綱。 69連勝、優勝12回、全勝8回などを記録。1943(昭和18)年大宰府に「双葉山相撲錬成道場」を開設。
1898年(明治31年)に時の福岡県知事と警察が「丈の高い山笠が頻繁に電線を切断する」「半裸の舁(か)き手は野蛮」などの理由で山笠廃止を打ち出した。博多の人達に助力を求められた古島九州日報主筆は、新聞で約1ヶ月間、山笠廃止反対の論陣を張り、
一方博多っ子たちに[山笠を低くすれば電線は切らぬ。半裸が悪ければ法被を着ればよい]と説得し仲裁役を買って出て山笠を守った。
1931年01月20日~1992年06月10日
昭和6年~平成4年
久留米市出身の作曲家・ジャズピアニスト。1950年代末から1960年にかけて、「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」など永六輔とのコンビで数々のヒット曲を出す。1959(昭和34)年12月27日、「黒い花びら」で第1回レコード大賞は受賞する。作詞永六輔、歌手水原弘
旧制中学明善、早稲田大学高等学院、早稲田大学文学部卒業。学生時代に音二郎の再来と言われる渡辺晋とシックスジョーズで活動、1953年からドラマージョージ川口率いるカルテット「ビッグ4」で活躍。当時の大衆的ジャズブームの渦中で非常な人気を得た。1950年代末からは作曲家として数々のヒット曲を生み、1959年の「黒い花びら」(作詞・永六輔、歌・水原弘)で第一回日本レコード大賞を受賞。
主な作曲作品 「上を向いて歩こう」(坂本九)、「黒い花びら」(水原弘)、「こんにちは赤ちゃん」(梓みちよ)、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)、「世界の国からこんには」(三波春夫)、「帰路かな」(北島三郎)、「夢で逢いましょう」(坂本スミ子)
1898年02月05日~1962年07月18日
明治31年~昭和37年
豊前市生まれ / 時代劇のトップスタートして1925年から1961年まで約300本の作品に出演。晩年造園に執念を燃やす。
1913年03月16日~2003年03月05日
国内有数の外科医で僻地医療問題に注目、奉仕。登山家として85歳で200回目の海外登頂に成功。
福岡市天神に誕生。大名小、福岡中、旧制福岡高、九州大学に進み、1937(昭和12)年九州大学医学部を卒業。医博。九州大第2外科助教授を経て、昭和27年、久留米大学医学部外科教授。消化器外科を主として、胃の手術例は3千回以上。昭和43年、久留米大ネパール医学調査診療隊長。1978(昭和53)年退職、名誉教授。
この間、1961(昭和36)年、64年の2回、アフリカ・ランバレネのシュバイツアー病院で2ヶ月間医療奉仕、親しくシュバイツアー博士の教えを受ける。1961(昭和36)年、国際外科会出席のため初渡欧したのを機会に、ユングフラウ、マッタンホルンに登頂。アルプスに魅せられ、ほとんど毎年のように外国の山を目指し、ヨウロッパばかりでなく、北極圏、中東、南米、アメリカ、ニュージーランド、中国、台湾など世界各国の高峰に登山。88年8月17日、11度目のマッタンホルーン(4478メートル)登頂、75歳で海外100登山、98年、85歳で海外200登山を達成。90歳での250回を目標にその後も登頂を重ね、243回になっていた。
1917年09月07日~2005年10月30日
福岡市出身。中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)から日大予科に進学。1936年のベルリンオリンピック200m平泳ぎで金メダルを獲得。1940年に第一線を退くまで、200m平泳ぎで世界ランキング1位の座を守った。