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運営:ふくおか新遊民倶楽部(旧二〇〇七年の会)
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1914年12月14日~1995年10月30日
大正3年~平成11年

福岡県田主丸町  京都近代美術館館長、美術評論化連盟会長、京都造形芸術大学学長など歴任し、日本美術界に貢献する。京都近代美術館館長、美術評論家連盟会長、京都造形芸術大学学長、横浜市美術振興財団理事長、美術館連絡協議会理事長などを歴任。著書には『画人游歴』『昨日今日の作家たち』(芸艸堂)、『河北倫明美術論集』(講談社)、『河北倫明美術時評集』(思文閣)などがある。

東京営団地下鉄の路線図ポスターで一躍有名になり、下町のナポレオンいいちこの宣伝責任者アートディレクター河北秀也氏の伯父にあたる。

1911年03月21日~1995年07月04日
明治44年~平成11年

山門郡瀬高町出身。六字斎観峰と号し、福岡を中心に全国に書道を普及。世界平和のために国際交流に尽くす。

802年~852年
延暦21~仁寿2年

平安時代前期の公家、詩人.832(天長9)年太宰少弐になったが、淳和天皇は才を惜しんで赴任を許さなかった。834(承和元)年に遣唐副使に任ぜられ836年大宰府に下り、07月02日博多津を出帆したが失敗。翌年も失敗し、2年後3回目の時に大使藤原常嗣との諍いで乗船を拒否し、『西道謡』を作って遣唐事業を風刺。ために嵯峨上皇の怒りに触れ、隠岐に配流。2年後に許される。『経国集』などに若干の詩、『古今和歌集』に6首がある。

1884年09月16日~1934年09月01日

岡山県生まれ/画家・詩人。本名は、茂次郎(もじろう)、1900(明治33)年17歳の2月に一家は岡山から北九州市八幡区大字枝光(現北九州市八幡区 山王1丁目)に移住し、八幡製鉄所に勤務した。明治34年(1901)18歳夏、東京へ出奔した。17年後に筑豊の炭鉱王といわれた伊藤伝右衛門に嫁いだ柳原白蓮が、1919(大正8)年に刊行した歌集「几帳の陰』と「幻の華」の表紙を手がける。

夢と憧れを失うことなく生きた不世出の詩画人竹久夢二は1934(昭和9)年09月01日信州・富士見高原療養所で、結核のためひっそりと亡くなりました。享年49歳。ほっそりした柳腰の美人“夢二型美人”は大正期に一世を風靡しました。「待てど暮らせどこぬ人を・・・・」あの『宵待草』は彼の作品です。と今泉正顕氏は「人物なるほど『一日一話』」で語ってます。

1767年11月~1836年09月27日

福岡市中央区(枡小屋町)うまれ/福岡藩士、儒学者亀井南冥に学び、特に書道や琵琶や和歌に秀でた。1824(文政7)年10台藩主黒田斉清の命で黒田節の元になる筑前今様3冊をまとめる。

1917年06月20日~1994年06月19日

東京都出身、51歳の時エチオピアに単身移住し、78歳で亡くなるまで約30年間彼の地の「女性」と「風景」を描き続けた。1990(平成2)年11月福岡市で個展を開催しエチオピアを紹介する。2005年3月「エチオピアの光と影~明日へ」没10周年回顧展が開催された。

1882年12月3日- 1940年10月11日
明治15年~昭和15年

山口県西佐波令村(現防府市)生まれ、明治・大正・昭和初期にかけての俳人。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。曹洞宗の僧侶。本名・種田正一。最も有名な句『うしろすがたのしぐれてゆくか』は1931(昭和6年)12月24日に福岡県八女市で作る。生涯の支援者で親友医師木村緑平(1888~1968年)は福岡県柳川市出身である。

1903年12月31日~1951年06月28日

北九州市門司区生まれ / 小説家。故郷喪失者の林文学は過酷な実生活に根ざしながらも詩情に富んでいる。

1885年10月15日~1967年02月22日

東京都麻布生まれ / 年下の宮崎滔天の息子との「世紀の恋』で騒がれた歌人で、福岡の文学グループのリーダーとして活躍。

1858年12月19日~1913年04月22日

横浜 / 福岡市東公園の亀山上皇銅像建立に協力し、大絵画と日蓮銅像台座の法難図の原画を制作する。

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