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運営:ふくおか新遊民倶楽部(旧二〇〇七年の会)
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1858年10月27日 -~1919年01月06日 
安政5年~大正8年

ニューヨーク州ニューヨーク市出身。第25代、第26代アメリカ合衆国大統領。1905(明治38)年、日露戦争で日本・ロシア間の調停をつとめた恩人。早く戦争を終結させようとする金子堅太郎全権大使に協力し、停戦からポーツマス条約での和平交渉に尽力した。この和平交渉の斡旋によってルーズベルトは1906年ノーベル平和賞を受賞した。

新渡戸稲造の「武士道」を読み感銘した親日家で、福岡市出身で明治憲法起草者・金子堅太郎とはハーバード大学の同窓生であった。

1235年~1308年12月29日
嘉禎元年~延慶元年

駿河国安部郡〔静岡市〕に誕生。本名・南浦紹明(なんぼしょうみょう)

宋で修行し、1270(文永7)年10月28日福岡市姪浜興徳寺に入、3年後太宰府横岳(よこたけ)の崇福寺に移り、そこで30年以上弟子を育成した。後宇多天皇に求められて京都にのぼり、鎌倉で1308(延慶元)年12月29日74歳で没した。興徳寺所蔵の大応国師着色画像は国の重要文化財であり、「大応国師と白ウサギ」報恩伝説が残されている。

1198年 -1281年
建久9年~弘安4年

1268(文永5)年01月02日大宰府の責任者・太宰少弐として元の皇帝クビライの使者に対応。幕府の鎮西奉行として文永、弘安の役で活躍する。

鎌倉幕府の有力御家人。武藤氏は当時、大宰府の責任者として太宰少弐の地位にあったため、この資能の時から少弐姓を名乗るようになったという。武藤資頼の子。

資能は北九州に大きな勢力を持ち、幕府の鎮西奉行として働いていた。1268年、蒙古の使者の対応にも当たっている。元寇直前に出家して覚恵と号して家督を長男の少弐経資に譲ったが、老齢の身でありながら自身も対元の総司令官として参戦した。しかしこのとき、奮戦したものの博多の街を元軍によって焼かれたため、戦後に非難を浴びている。弘安の役にも老齢の身を押して出陣し、壱岐島の戦いで元軍相手に奮戦したが、このとき敵兵の攻撃を受けて重傷となり、まもなくその傷がもとで死去したという。

1849年11月11日~1912年09月13日
嘉永2年~大正元年

明治時代を代表する軍人。1876年(明治9)10月29日、明治政府に対する士族反乱の秋月の乱を小倉鎮台を率いて攻撃平定する。 1877(明治10)年 - 小倉城に配備された歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加。熊本城北方の田原坂へ転戦、激戦の結果軍旗を失う。乃木はこれを終生忘れることはなかった。この事が後に乃木の自刃の遠因となる。

陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院院長。畏敬と親愛を込めて乃木大将などの呼称で呼ばれることも多い。

東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」とも呼ばれた。若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ帝国留学において質実剛健な普魯西(プロイセン)軍人に感化され、帰国後は質素な生活を旨とするようになったという。また、明治天皇の後を追った乃木夫妻の自殺は、殉死として美談にもなった。

秋月の乱

1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、旧秋月藩の士族宮崎車之助、磯淳、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約400名によって起こされた反乱である。神風連の乱から3日後の10月27日、今村を隊長とする「秋月党」が挙兵、まず明元寺で警察官を殺害(日本初の警察官の殉職)。旧秋月藩の士族はあらかじめ旧豊津藩の士族、杉生十郎らと同時決起を約束していたため、このあと豊津へと向かい、10月29日に到着する。しかしこのとき旧豊津藩士族は決起しない方針を固め、杉生らは監禁されており、談判中、豊津側の連絡を受けて到着した乃木希典率いる小倉鎮台が秋月党を攻撃。秋月側は死者17名を出し(政府軍の死者2名)江川村栗河内(現・朝倉市大字江川字栗河内)へ退却、10月31日に秋月党は解散し、磯、宮崎、土岐ら7名は自刃した。

1041年~1111年11月05日
長久2年-天永2年

平安時代後期の代表的な公卿・学者。 1098年(承徳2)9月、大宰権帥として大宰府に赴任。堀河天皇の1101(康和3)年に菅原道真公の往時を偲び、国の弥栄と氏子の平安祈念。五穀豊穣を祈る神幸祭を始める。

1851年11月07日~1937年11月15日
嘉永4年~昭和12年

福岡市中央区生まれ / 米国に留学。日米条約改正を成立を始め、近代日本の歩みに大きく貢献した外交官。駐露公使として、ロシア政府に国交断絶の通告公文を提出する。

607(推古15)年、07月03日に聖徳太子の命により初の遣随使・小野妹子が旅立つ。

強大な隋に対等な立場をとり、妹子が呈した国書の冒頭に『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや』などとあって、煬帝(煬帝)を怒らせた。

翌年、妹子は答礼使裴(はい)清世を伴って帰国するが、隋の返書を百済(くだら)人に奪われたと偽り、奏進しなかったので問題になる。翌年、妹子は裴(はい)清世を送って再び派遣された。これには高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなみぶちのじょうあん)、僧罠(そうみん)など8人の留学生が同行した。妹子は翌年帰国したが、留学生は隋末唐初の30年間も滞在し、その先進的な制度文物について学び、また王朝交代を見聞して帰国し、我が国の政治的文化的な発展に貢献する。特に645年の大化の改新あるいは以後の律令国家の形成に大きな影響を与えた。

802年~852年
延暦21~仁寿2年

平安時代前期の公家、詩人.832(天長9)年太宰少弐になったが、淳和天皇は才を惜しんで赴任を許さなかった。834(承和元)年に遣唐副使に任ぜられ836年大宰府に下り、07月02日博多津を出帆したが失敗。翌年も失敗し、2年後3回目の時に大使藤原常嗣との諍いで乗船を拒否し、『西道謡』を作って遣唐事業を風刺。ために嵯峨上皇の怒りに触れ、隠岐に配流。2年後に許される。『経国集』などに若干の詩、『古今和歌集』に6首がある。

1251年05月15日~1284年04月04日
建長3年~弘安7年

相模国鎌倉/鎌倉幕府8代執権、国難・元寇の役の総指揮にあたった青年執権。神風で文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)を防いだと言われているが、元の皇帝フビライ・ハーンへの厳しい対応と博多湾に石塁(防塁)を築き、九州各地の御家人に、異国警備役を命じ、再度の襲来に備えた防衛策が功を奏したといえる。

1890年~1982年05月29日

福岡県田川郡生まれ、元首相東条英機大将の未亡人として1982年(昭和57年)、91歳の波乱万丈の人生を東京・世田谷の自宅で終える。

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