1319・元応元年・?~1373年・応安6年・11月16日
熊本益城郡豊田庄、南朝懐良親王を立て、1359年08月06日の筑後川の戦い(大原合戦)で少弐頼尚に対して勝利し、夜襲を仕掛けて大宰府を奪う。戦いの後、傷ついた菊池武光が、刀についた血糊を川で洗ったところが、筑後国太刀洗(現福岡県三井郡大刀洗町)である。その後、武光は懐良親王を擁して大宰府に征西府を確立し、1362年には大友氏時と再度戦って豊前を攻略する。また、九州探題であった斯波氏経が大宰府に襲来した際には弟の菊池武義と共にこれを撃退した。1372年に斯波氏経、渋川義行の後任として今川貞世(了俊)が九州探題として就任して派遣されると、武光は了俊に敗れ、懐良親王と共に大宰府から逃れて高良山を新たな拠点とする。北朝の後光厳天皇は菊池武光の武威を恐れて、その追討を命じる綸旨を出した。
1373年11月16日に死去。享年は52と言われている。熊本県菊池市の菊池神社の主祭神として祀られている。
墓所は熊本県菊池市の正観寺。福岡県大刀洗町の大刀洗町公園には銅像がある。
2009-11-27 01:07. [ 政治・宗教 ] コメント(0) • [固定URL]
1890年10月25日~1974年03月01日
明治23年~昭和49年
法学者、文部大臣として日本国憲法に署名し、教育基本法制定に尽力する。閣僚(文部大臣)を経験した唯一の最高裁判所長官として在任期間3889日間、歴代最長の記録を持ち最高裁の基盤を創った。その後昭和36年より9年間オランダのハーグで国際司法裁判所判事として活躍する。
2009-10-26 08:37. [ 政治・宗教 ] コメント(0) • [固定URL]
1202年11月01日~1280年11月10日
建仁2年10月15日~弘安3年10月11日
鎌倉時代中期の臨済宗の僧。本名は円爾(えんに)。宋から帰国後博多で承天寺(じょうてんじ)を開山し、山笠(07月01日~07月15日)をはじめ、饅頭を普及する。
駿河(静岡県)の出身。鎌倉時代中期の臨済宗の僧。本名円爾(えんに)諡号(しごう)は聖一国師(しょういちこくし)。嘉禎元年(1235年)、宋に渡航して無準師範(ぶしゅんしばん、1178年 - 1249年)の法を嗣いだ。帰国後博多で承天寺(じょうてんじ)を開山し、『疫病が流行り,施餓鬼棚(せがきだな)に乗って担がせ、清めて回り』山笠をスタートさせる。また酒饅頭の製法を教え、承天寺は饅頭の発祥の地といわれている。
2009-07-08 01:53. [ 文化・民俗 ] コメント(0) • [固定URL]
1582年~1602年12月01日
秀吉の養子から名島城主で小早川隆景筑前領主の養子になり、関が原で東軍大勝の因を作った戦国武将。
2009-06-09 04:59. [ 政治・宗教 ] コメント(0) • [固定URL]
1858年10月27日 -~1919年01月06日
安政5年~大正8年
ニューヨーク州ニューヨーク市出身。第25代、第26代アメリカ合衆国大統領。1905(明治38)年、日露戦争で日本・ロシア間の調停をつとめた恩人。早く戦争を終結させようとする金子堅太郎全権大使に協力し、停戦からポーツマス条約での和平交渉に尽力した。この和平交渉の斡旋によってルーズベルトは1906年ノーベル平和賞を受賞した。
新渡戸稲造の「武士道」を読み感銘した親日家で、福岡市出身で明治憲法起草者・金子堅太郎とはハーバード大学の同窓生であった。
2007-11-26 01:00. [ 政治・宗教 ] コメント(0) • [固定URL]
1235年~1308年12月29日
嘉禎元年~延慶元年
駿河国安部郡〔静岡市〕に誕生。本名・南浦紹明(なんぼしょうみょう)
宋で修行し、1270(文永7)年10月28日福岡市姪浜興徳寺に入、3年後太宰府横岳(よこたけ)の崇福寺に移り、そこで30年以上弟子を育成した。後宇多天皇に求められて京都にのぼり、鎌倉で1308(延慶元)年12月29日74歳で没した。興徳寺所蔵の大応国師着色画像は国の重要文化財であり、「大応国師と白ウサギ」報恩伝説が残されている。
2007-11-02 09:44. [ 政治・宗教 ] コメント(0) • [固定URL]
1198年 -1281年
建久9年~弘安4年
1268(文永5)年01月02日大宰府の責任者・太宰少弐として元の皇帝クビライの使者に対応。幕府の鎮西奉行として文永、弘安の役で活躍する。
鎌倉幕府の有力御家人。武藤氏は当時、大宰府の責任者として太宰少弐の地位にあったため、この資能の時から少弐姓を名乗るようになったという。武藤資頼の子。
資能は北九州に大きな勢力を持ち、幕府の鎮西奉行として働いていた。1268年、蒙古の使者の対応にも当たっている。元寇直前に出家して覚恵と号して家督を長男の少弐経資に譲ったが、老齢の身でありながら自身も対元の総司令官として参戦した。しかしこのとき、奮戦したものの博多の街を元軍によって焼かれたため、戦後に非難を浴びている。弘安の役にも老齢の身を押して出陣し、壱岐島の戦いで元軍相手に奮戦したが、このとき敵兵の攻撃を受けて重傷となり、まもなくその傷がもとで死去したという。
2007-10-26 11:41. [ 政治・宗教 ] コメント(0) • [固定URL]
1849年11月11日~1912年09月13日
嘉永2年~大正元年
明治時代を代表する軍人。1876年(明治9)10月29日、明治政府に対する士族反乱の秋月の乱を小倉鎮台を率いて攻撃平定する。 1877(明治10)年 - 小倉城に配備された歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加。熊本城北方の田原坂へ転戦、激戦の結果軍旗を失う。乃木はこれを終生忘れることはなかった。この事が後に乃木の自刃の遠因となる。
陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院院長。畏敬と親愛を込めて乃木大将などの呼称で呼ばれることも多い。
東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」とも呼ばれた。若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ帝国留学において質実剛健な普魯西(プロイセン)軍人に感化され、帰国後は質素な生活を旨とするようになったという。また、明治天皇の後を追った乃木夫妻の自殺は、殉死として美談にもなった。
秋月の乱
1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、旧秋月藩の士族宮崎車之助、磯淳、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約400名によって起こされた反乱である。神風連の乱から3日後の10月27日、今村を隊長とする「秋月党」が挙兵、まず明元寺で警察官を殺害(日本初の警察官の殉職)。旧秋月藩の士族はあらかじめ旧豊津藩の士族、杉生十郎らと同時決起を約束していたため、このあと豊津へと向かい、10月29日に到着する。しかしこのとき旧豊津藩士族は決起しない方針を固め、杉生らは監禁されており、談判中、豊津側の連絡を受けて到着した乃木希典率いる小倉鎮台が秋月党を攻撃。秋月側は死者17名を出し(政府軍の死者2名)江川村栗河内(現・朝倉市大字江川字栗河内)へ退却、10月31日に秋月党は解散し、磯、宮崎、土岐ら7名は自刃した。
2007-09-07 12:16. [ 政治・宗教 ] コメント(1) • [固定URL]
1041年~1111年11月05日
長久2年-天永2年
平安時代後期の代表的な公卿・学者。 1098年(承徳2)9月、大宰権帥として大宰府に赴任。堀河天皇の1101(康和3)年に菅原道真公の往時を偲び、国の弥栄と氏子の平安祈念。五穀豊穣を祈る神幸祭を始める。
2007-09-07 12:13. [ 政治・宗教 ] コメント(0) • [固定URL]
1851年11月07日~1937年11月15日
嘉永4年~昭和12年
福岡市中央区生まれ / 米国に留学。日米条約改正を成立を始め、近代日本の歩みに大きく貢献した外交官。駐露公使として、ロシア政府に国交断絶の通告公文を提出する。
2007-06-25 11:58. [ 政治・宗教 ] コメント(0) • [固定URL]